【白鳥の湖】(1)
(C)Eriko Kawaguchi 2018-01-13
■プロローグ
オデット(Odet *1)はその日、数人の家来を連れて森に遊びに来ていました。猟をして仕留めた鹿を焼いて食べ、楽しく家来たちと語りあっていました。
オデットが立ち上がるので、家来が訊きます。
「オデット様、どちらへ?」
「ちょっとお花摘みに」
「はい、行ってらっしゃいませ」
それでオデットは家来たちから少し離れると、近くにある湖の畔に出ました。
そしてあたりを見回して“お花を探して”いたら、そこに1羽のフクロウが飛んできました。フクロウは若い男性に姿を変えます。
「こんにちは、お嬢さん」
と男性は挨拶をします。
「え!?」
とオデットは戸惑うように声を挙げます。
「私はロットバルト(*2)と申します」
「えっと、私はオデット(Odet)です」
「おお、オデット(Odette)とは、美しい名前だ。あなたにこれを」
と言って、どこからか花束を取り出して、オデットに渡します。
オデットは反射的に受け取ってしまい
「ありがとう」
と言いました。そういえば、ボク『お花摘み』に来たんだった、と目的を思い出しますが、この人が立ち去ってからにしようと思います。
しかしロットバルトは
「まあ座りませんか」
と言って、オデットを座らせると、何やら色々話を始めてしまいました。
今年の夏は暑いですね、などといった世間話から始まって、外国の風物の話など始めて、どうも長話になりそうな雰囲気です。オデットはさすがに困ってしまい
「すみません。お話はまたの機会に」
と言って立ち上がります。どこか他の場所で“お花を摘もう”と思ったのですが、ロットバルトが行く手をふさぎます。
「待って下さい。でしたら、次会う約束を」
その強引な言い方にオデットを少し機嫌を悪くしました。
「私は行きます。どいてください」
「私はあなたともっと話がしたいのだ。私はあなたのことが好きになってしまった」
ちょっと待て〜!?男に好きになられても困る、と思ったオデットは言います。
「申し訳ありませんが、私はあなたには興味が無いので」
するとロットバルトは
「でしたら、私に興味を持って頂けるまで、ここに居てもらいましょう」
と言い、オデットをマントで覆うようにしました。
するとなんとオデットは白鳥の姿に変わってしまったのです。
うっそー!? なんでこういうことになる訳!??
とオデットは驚きます。
ちょうどその時、オデットが「お花摘み」から、なかなか戻ってこないので、探しに来た家来たちが、オデットが白鳥に変えられるのを見ました。
「貴様何者だ?」
「オデット様に何をした?」
と家来たちが詰め寄ります。するとロットバルトはその家来たちも白鳥に変えてしまいました。
「まあ時間はゆっくりある」
と言ってロットバルトは湖の畔にある岩穴の中に入りました。
■第1幕 お城の中庭
その年の春、ジークフリート王は憂鬱でした。
お城の中庭では宴会が開かれていました。
今日はジークフリート王の21歳の誕生日なのです。これまでは父の先王亡き後、一応ジークフリートが新しい王になったものの、母(先王の后)が摂政として政治(まつりごと)を行ってきました。しかしとうとうジークトリートが成人になったので(*3)、母の摂政は終了し、これからはジークトリートが自分で国を治めていくことになります。
そして母はジークフリートに「一人前の国王になるのだから、早く妃(きさき)を決めて、世継を作るようにとも言っていました。そのことが王にとっては憂鬱だったのです。
宴の主役であるジークトリートの憂鬱とは裏腹に、宴は、やや乱痴気騒ぎ気味になっていきます。王の成人を祝いに訪れた民衆をどんどん中に入れて、酒をふるまい、飲めや歌えやで、かなり酷い状態になっていきます。中に入ってきた娘たちと貴族の男たちの間で、淫らな行為が行われています。
最初は王の家庭教師・ヴォルフガングがそういう乱れている者たちを諫めていたのですが、その内若い家来たちが
「まあ、先生も硬いこと言わずに飲みましょう」
と言ってお酒を飲ませますと、完全に酔ってしまいます。そしてヴォルフガング自身が女の子たちを追いかけまわしはじめました。その内好みの女の子の傍によって熱心に口説き出します。女の子の方は本気で相手はしていないのですが、彼をじらすようにヴォルフガングの言葉先をかわしていきました。
そしてヴォルフガングはその子の肩に手を掛け、キスしようとします。
ところが女の子は、すんでで、ひょいと顔をずらし、そこに後ろにいた男が顔を出したので、ヴォルフガングはその男にキスをしてしまいました。
「先生、男が好きなんですか?」
「いや、違う。私は間違って」
と弁解しますが、男も女もみんなヴォルフガングをからかいます。
そしてキスされた男は
「俺、男と結婚する趣味は無いから、俺と結婚したいなら、先生、女になってくださいよ」
と言いました。
するとみんなは
「よし、先生には女になっていただこう」
と言って、よってたかってヴォルフガングの服を脱がせてしまい、代わりに女の服を着せてしまいました。
「先生、けっこう女でも行けるじゃないですか?」
「そ、そうかな?」
とヴォルフガングは初めて女の服を着て、褒められた(?)のがまんざらでもない様子でした。
ところがそのように乱れていた所にファンファーレが響きます。
侍女が数人現れて
「王太后陛下のおなりー」
と言いました。
「やばい。こんなに乱れている所を見られたらやばい」
と言って、乱痴気騒ぎをしていた連中はみんな逃げ出してしまいました。
ジークトリートの母は中庭にやってくると、散らかっている様をジロッと見ました。そして息子の後ろに控えている家庭教師が女装!?しているのを見ると、更に厳しい視線を送ります。
「ヴォルフガング、そなたいつから女になった?」
「いえ、すみません。出がけに男物の服が見当たらなかったもので」
「恥ずかしがらなくてよいぞ。そなた、女になりたいのであろう。今後女としてジークトリートに仕えるように」
「そんなぁ」
「恩寵として女になることを認める。ありがたく思え」
「ははあ、ありがとうございます」
と言って、ヴォルフガングは平伏します。
それでヴォルフガングは明日から女家庭教師になることになってしまいました!
ジークフリートも結構飲んでいるのですが、何とか体裁を保って母に言います。
「母上、誕生日の祝いをしている内に、少しハメを外した者もあったようです。私の不徳と致すところです」
「私は別にお前たちの馬鹿騒ぎを止めにきたのではない。これをそなたに授ける」
と言って、母君は王に立派な弓矢を授けました。
「そなたも王である前に立派な騎士として腕を磨かねばならん」
「はい。剣は師範のガイザー殿に習って日々鍛えておりますが、確かに戦いが起きたら弓矢の威力は大きいですね」
「うん。頑張って鍛錬されよ」
「ありがとうございます」
「それで、ジークフリートよ。明日、誕生祝いの舞踏会を開くことにした。そなたの花嫁候補も何人か呼んでおるから、その中から妃にする姫を選びなさい」
と母は言いました。
「分かりました」
とジークフリートは答えますが、恋というものをしたことのない彼には結婚というものも、どうもイメージが湧かないものでした。
王太后が帰った後は、逃げていた者たちが恐る恐る戻ってきて宴会の続きを始めました。
結局、ヴォルフガングは女の服装のままで
「家庭教師殿が女になられたお祝い」
などと称して、更にお酒を飲ませられ、結局ヴォルフガングは完全に伸びてしまいます。結局、王の命令で部屋に運ばれていきました。
「ついでにヴォルフガングの部屋の男物の服を全部回収して女物の服をたくさん置いておけ」
と王は侍従に命じました。
「マジで家庭教師殿は女になられるので?」
「摂政陛下の命令だから、当然そうなる」
「分かりました。侍女と一緒にやっておきます」
と言って、侍従は下がりました。
宴会もやがて日が落ちる頃にはさすがにお開きになりました。
みんなが去り、静まりかえった庭でジークフリートがぼんやりと空を眺めていたら、夕暮れに向かって空を飛ぶ白鳥の群れがありました。
「ああ、もう白鳥が戻って来る時期か」
とジークトリート王は呟きました。
白鳥は冬の間は寒さを避けて南の国に飛んで行きますが、だいたい4月下旬から5月頭頃にヨーロッパに戻ってきます。
その白鳥の飛ぶ姿を見ていたら、王は突然あの白鳥を、今母からもらった弓矢で仕留めてみたい気になりました。
それで王は唐突に愛馬に乗ると、供も連れずに、ひとりで城から駆けだして行きました。
(バレエでは宴会が終わり、ジークフリートが1人になった所から超有名な『情景(Scene, сцена)』の曲が流れる。この曲をもって第1幕が終わるが、第2幕も『情景』から始まる。第1幕最後はジークフリートがひとりで踊り、第2幕冒頭はロットバルトが1人で踊る)
https://youtu.be/ELtC3oWUE6o
■第2幕 夜の湖
(幕構成について*4)
ジークフリート王が夕日を追うように馬を走らせていくと、やがてゴツゴツとした岩だらけの荒れ果てた窪地に着きました。そこに白鳥たちは降りて羽を休めていたのです。窪地の中央に小さな池があり、白鳥たちはそこで水を飲んでいるようです。近くには荒れ果てた聖堂の跡などもありました。
ジークフリートは木の陰から慎重に白鳥を狙います。目を細めて見ている内に、白鳥たちの中に1羽、頭に王冠を付けているものがいることに気付きました。なぜあんなものをつけているのだろう?と思ったものの、その白鳥が物凄く美しいことにも気付きました。
あの美しい白鳥を仕留めて、私の部屋に飾るのもいいなと王は思い、その白鳥に狙いを定めます。
ところが矢を射る瞬間、物凄い風が吹いてきて、王の手元が狂います。それで矢もわずかに逸れて、その王冠を抱く白鳥の向こう側にあった灌木に刺さりました。白鳥たちは驚いてみんな一斉に飛び立ちました。
惜しかった!
と王は思いました。
しかし白鳥たちはまたすぐ戻ってくるかも知れないと思い、王は木の陰に身を隠して、しばらくその場で待ちました。
ジークフリートが待っていた間に、夕日が西の空に沈み、代わって東の空から丸い月が昇ってきました。今夜は満月のようです。
そして月が昇ってきた途端。
何ということでしょう。
今まで岩がゴツゴツしていて、窪地の中央に小さな池があるだけだったのが、美しい花が咲き乱れる情景に変わり、池の水も増量して広がり、湖にと変わりました。
そして荒れ果てた聖堂と思っていたものも、不思議な光に覆われた美しい聖堂へと姿を変えたのです。
ジークフリートが驚いてその様子を見ていたら、やがて白く短いスカートを穿いた女性が、そこの聖堂に入っていきました。
その女性があまりにも美しかったため、ジークフリートは思わず木の陰から出て行きました。そして聖堂の入口の所まで寄ってみます。
女性は王冠をつけていました。この王冠、どこかで見たことあるなと思ったのですが、王はこの時は思い出せませんでした。
お祈りをしていた女性がハッとしたように振り返ります。
そしていきなり悲鳴を上げました。
「きゃー!やめて!殺さないで!」
そんな悲鳴をあげられてジークフリートの方が焦ります。
「待って下さい。私は何もしない。あなたの美しさについ見とれてしまっていただけです。私は怪しい者ではありません。この国の王です」
とジークフリートは言いました。
「だって、だって、その弓矢で私を射るのでしょう?」
と女性が言います。
「そんなことはしません!」
と言って、ジークフリートはその弓を遠くに投げ捨てると、矢筒も身体から外して、やはり遠くに投げ捨てました。
すると女性は恐る恐る
「本当に私を殺さない?」
と訊きます。
「私はそんな乱暴なことはしません。私は女性に暴力をふるったことなど、ありませんよ」
「でも、さっきは私に矢を射て殺そうとしたではありませんか?」
「え!?」
とジークトリートは声を挙げると、考えました。
その時、ハッとします。
女性がつけている王冠、それはさっき射ようとした美しい白鳥が頭に抱いていた王冠に似ているのです。
「まさか、さっきの白鳥があなたですか?」
「ええ、そうです」
「大変申し訳ありませんでした。ただの鳥かと思ったので。まさか、あなたのようなお方とは思いもしませんでした。あなたは妖精か何かですか?」
と王は訊きます。
「いいえ。私は人間です」
と女性は言います。
「でも白鳥の姿になったり人間の姿になったりするというのは?」
「私はフクロウの精に魔法を掛けられているのです」
「それはまたどうして?」
「私もよく分からないのです」
と女性は言いました。
「あなたのお名前をお聞きしていいですか?私はジークフリートと申します。私はもう2度と鳥を弓矢で射ることはありません」
「私はオデット(Odet)と申します」
「オデット(Odette)ですか。美しい名前だ」
ジークフリートが紳士的な態度なので、オデットも安心し、ふたりは聖堂の階段に座ってしばしお話をしました。
「私は数年前この湖の近くの森に遊びに来ていたのです。ひとり離れて湖畔に来た所で、ロットバルトというフクロウの精に声を掛けられました。それでしばらくお話していたのですが、何か彼の気分を害してしまったようで、彼は私を白鳥に変えました。そして私の家来たちも同様に白鳥に変えてしまったのです」
「なんてことを・・・」
「それ以来、私は家来たちとともに白鳥として暮らしています。冬になると、ここの湖も凍ってしまうので、南の暖かい国へと渡って行きます。そして春になると、この湖に戻ってきます。今年は今日やっとこちらに到着した所でした(*5)」
「人間の姿に戻るのは?」
「私も家来たちも、昼間は白鳥の姿です。しかし、太陽が沈んで暗くなり、夜空に月が輝いている時だけ、私はこのような少女の姿に変わるのです」
「オデット殿、そなたのお父上やお母上などはどうしておられる?」
「母は私が幼い頃に亡くなったのです。父も私が失踪してしまったのを悲しみ、昨年亡くなってしまいました」
「それは悲しいね」
「父の葬儀に出られなかったのが心残りです。所領は本家筋に当たるヴァイセベルジュ公に吸収していただきました」
「おお、ヴァイセベルジュ公の縁者であったか」
「はい。父はヴァイセフルス伯と申しておりました」
「そうか。それではあなたが産んだ子供のひとりにあらためてヴァイセフルス伯を名乗らせてもいいね」
「私が産むんですか!?」
とオデットは驚いて言ったものの、ジークフリートはその驚きはまだ恋とか結婚などを考えたことのない若い娘ゆえの驚きと思いました。
「魔法を解く方法は無いのですか?」
「それが・・・」
オデットはそれを言うのがためらわれました。しかしやがて決心したように言いました。
「いつかロットバルトは言っていました。まだどんな女性にも愛を誓ったことのない男性に、永遠の愛を誓ってもらえたらこの魔法は解けるらしいのです。私の魔法が解けたら、家来たちの魔法も一緒に解けるという話です」
ところが、そうやって、しばらくオデットとジークフリートが話している所に突然物凄い風が吹き、ジークフリートは吹き飛ばされてどこかに行ってしまいました。
ロットバルトが姿を現してオデットに言います。
「大したもんだな。男を引き入れたか? それだけの根性があるのなら、我が妻になれ」
「いやです。それだけは」
男と結婚するなんて無茶だよぉとオデットは思っています。
ロットバルトはしばらくオデットをなじっていましたが、やがてまたどこかに姿を消します。
月が高く昇ってきます。
オデットと一緒に白鳥に変えられていた家来たちも人間の女に姿を変えました。そしてオデットの傍に寄ってきました。
「オデット様、ご無事でしたか」
「私は大丈夫ですよ」
「さっきの弓矢でオデット様を射ようとした男は?」
「間違いだったと言って謝っていました。そこに弓矢を投げ捨てて、私を襲う気が無いことを示しました」
「ではこれは私が預かっておきます」
と言って、ひとりの家来が弓矢を片付けました。
女の姿になった家来たちは沈んだ様子のオデットを慰めるため踊りを披露します。家来たちは様々な列形を取り、踊りを踊ってオデットを楽しませてくれました。
(バレエではここで24人のバレリーナによる群舞が披露されます。その後、その24人とは別の4人が出てきて有名な「4羽の白鳥」の踊りが披露されます)
「あなたたちにも本当に苦労掛けてしまってごめんね」
とオデットは女の姿になっている家来たちに言います。
「いえ。私たちは常にオデット様と一緒です」
と家来たちは言います。
「白鳥の姿で日中すごすのも慣れましたし」
「水中の魚を獲るのも、かなり上達しましたよ」
「月の光の下では人間の姿に戻れますし」
「できたら、人間の男に戻れたらいいのにね」
「女の身体もなかなかいいですよ」
「座っておしっこするのにもだいぶ慣れました」
オデットは悩んでいたことを家来たちに打ち明けました。
「私、もうロットバルトとの結婚を承諾してしまおうか?それで私もみんなも魔法が解けると思うし。ロットバルトもそんなに悪い奴じゃない気もするし」
「しかしオデット様、魔法が解けたら、ロットバルト殿と結婚できない身体になるのでは?」
「うーん・・・・」
「今は魔法が掛かっておりますから、こうやって白鳥でなければ人間の女の姿ですけど、魔法が解けたら、全員男に戻ってしまいますし」
「オデット様も、男の身体でどうやって、ロットバルト殿の奥さんになられるので?」
「だからボクは断ったのにね〜」
「我々はオデット様のお傍に仕えるのであれば、もう女のままでもいいですよ」
「そうです。オデット様は、自分の素直な気持ちに従って下さい。私たちは今のままでも問題ありません」
「そう?」
と言って、またオデットは悩むのでした。
オデットの家来たちのダンスは交代交代しながら、ずっと続いていました。
彼らが人間の姿になれるのは夜中に月が出ている間だけです。
ですから新月の夜は人間の姿に戻れませんし、三日月の夜は1時間半くらい、半月の時が夜の半分ほどですが、今夜のような満月の夜は一晩中人間の姿でいられます。ただ、日が沈んだ後、オデットは割と早く人間の娘の形になるものの、家来たちは少し遅れて人間の娘の形になります。朝も家来たちが先に白鳥になり、オデットが最後に白鳥になります。
それでさっきはジークトリートがオデットに近づいて来たのを家来たちはハラハラしながら見ているだけで、阻止することができませんでした。
この時間差の件をロットバルトに1度尋ねてみたこともあるのですが、
「ちょっと魔法の加減が強すぎたようだ」
などと彼は言っていました。
今の時期は、日暮れから夜明けまでの長さは7時間ほどなので(*6)今夜の踊りも7時間近く続きました。
ロットバルトに吹き飛ばされてしまったジークフリートも真夜中くらいには何とか戻ってきました。家来たちが警戒しますが、オデットは
「この方は大丈夫ですよ」
と家来たちに言い、ジークフリートには
「一緒に踊りませんか?」
と言いました。
それでオデットとジークフリートも家来たちと一緒に踊りました。ふたりはまるで男女のペアのように組んで踊ったりもしました。
しかしオデットのスカートがとても短いので、ジークフリートは結構オデットの足が気になるようで、オデットも「そんなに見つめないで〜」と思いながら踊っていました。
空が明るくなり始めてからも、ダンスは1時間以上続きましたが、やがて家来たちが先に白鳥に戻って行き、ダンスから離脱していきます。この白鳥に戻るのも一斉に戻るのではなく、1人1人けっこうな時間差があるようです。
しかしその内、家来たちが全員白鳥に戻り、踊っているのはジークフリートとオデットだけになります。白鳥たちは湖の上に浮かんで、こちらを伺っているようです。
この時、ジークフリートが言いました。
「オデット姫、今までどんな女性も愛したことのない男があなたに永遠の愛を誓えば、魔法は解けるとおっしゃってましたね」
「ええ」
と答えながら「オデット“姫”」と呼ばれるのは嫌だなあと思っています。
「あなたは夜の間は人間に戻れる。でしたら、今夜、うちの城にいらっしゃいませんか?うちの城で今夜舞踏会を開くのです。私はそこで妃となる娘を選ぶことにしている」
「へー。誰か良いお姫様が見つかるといいですね」
とオデットは笑顔で言います。
「いや、あなたを妃に選びたい」
「え!?」
「それで私があなたに永遠の愛を誓えばあなたもご家来たちも魔法が解けて、白鳥に戻らないようになる」
「え〜〜〜!?」
「そうだ。やってくるであろう、外国の姫君たちにも負けないような豪華なドレスを日中、この聖堂に届けさせます。ですから、それを着ていらして下さい。舞踏会は18時頃から始まりますが、私はあなたが来るまでずっと待っています」
「ちょっと待って下さい。私は・・・」
という所まで言った時、オデットの姿は白鳥に戻ってしまいました。
ジークフリートはその白鳥になってしまった、王冠をつけたオデットを抱き抱えると、湖面に放してあげました。
やがて周囲がどんどん明るくなってくると、湖の面積が小さくなっていきます。やがて小さな池になってしまいました。咲き乱れていた花も消えて行き、ゴツゴツとした岩だらけになります。そして日が昇ってきた時には、聖堂もいつしか輝きを失い、荒れ果てた廃墟になってしまっていました。
ジークフリートは王冠をつけた白鳥に
「待っていますよ」
と言うと、その場を離れ、城に戻っていきました。
城に戻ると、侍従が王に
「一晩中どこに行っておられたのですか?」
と苦言を言います。
「済まん。実は心を通わせている娘と会っていたのだ」
とジークフリートが言いますと
「そんな娘がいたのですか!」
と驚きます。
「血筋は確かなのだ。ただ昨年お父上が亡くなり、現在はあまりしっかりした後ろ盾が無いのだよ。それで舞踏会に呼ぼうと思ったのだが、そんな所に着ていく服が無いなどと言っていた。それで済まないが、外国から来るであろう姫君たちに見劣りしないような豪華なドレスを届けてやってもらえないだろうか」
とジークフリートは言います。
「そういうことでしたら、お任せ下さい。どこのお屋敷に住んでおられます?」
「それが屋敷も維持するのが大変で、みすぼらしいので、見られたくないと言って。それである場所で受け渡しをすることにした。地図を書くからそこにある古い聖堂跡の所に、衣裳を届けてもらえないか?それを向こうの侍女たちが回収してくれるはずだ」
「分かりました。すぐに手配します」
と侍従は言いました。
■第3幕 お城
ジークフリートは午前10時頃に、一度沐浴をさせられ、その後、上等の下着を着けさせられて、式典服を着せられます。腰には宝剣を下げて、お昼からの成人の儀式、そして摂政たる王太后から国の統治権を継承する儀式に臨みました。
式典が終わってから王太后は
「これからはそなたが本当にこの国の統治者である。決して人から後ろ指を指されるようなことはなさるな」
と言いました。ジークフリートも
「はい。しっかりこの国を治めていきます」
と誓いました。
その後は、外国の王室の使いの人、大臣や将軍など、更に何とか公爵だの何とか侯爵だの何とか伯爵だのといった人たちが来ては挨拶していきます。そういう人たちにジークフリート王は笑顔で応じていました。
挨拶に来た人たちの中にヴァイセベルジュ公爵がいたのでジークフリートは彼に声を掛けました。
「そなたの縁者にヴァイセフルス伯爵がおられたな」
「はい。覚えて頂いていてありがとうございます。ヴァイセフルスは昨年亡くなったのですよ」
「跡継ぎは?」
「それがひとり跡継ぎがいたのが、6年程前に行方不明になりまして」
「どういう状況だったのだ?」
「従者を20人ほど連れて散歩に出ていたのが夜になっても帰ってこなかったんです。たくさん人数を出して探させたのですが、どうしても見つけることができませんでした」
「何があったのであろうな」
「何かの事故に遭ったのではということになりました。当時まだ12歳でしたが、顔も美しく、性格もしっかりした立派な跡継ぎで、遅くなってから出来た子でもあったし、伯も将来を楽しみにしていたのですが。実は伯が亡くなったのには、その後の心労もあったようなのですよ」
「それは大変だったね」
この会話で聞いた内容が、オデット姫の話と一致しているので、あの子は間違い無くヴァイセフルス伯爵の娘なのであろうとジークフリートは考えました。
しかし6年前に行方不明になり当時12歳だったということは現在18歳ということになります。自分の妃として、年齢的にもバランスが良い、とジークフリートは思いました(昨晩はさすがに女性に年齢を訊くのはと思い、尋ねなかったのです)。
一方、ジークフリートに「自分の妃に指名するから舞踏会に来てくれ」と言われてしまったオデットは、はたはた困っていました。
ジークフリートが娘の姿の自分に永遠の愛を誓ってくれたら、確かに魔法は解けるかも知れません。しかしその瞬間、自分も家来たちも全員、人間の男に戻ってしまいます。そうしたら、ジークフリートは欺されたとか怒って自分たちを死刑にするかも知れません。
もうひとつの選択肢としてロットバルトの愛を受け入れてしまう手もあります。その場合も、やはり自分と家来は男に戻ってしまうので、今度はロットバルトが怒って、自分たちを全員殺してしまうかも知れません。
つまりジークフリートの愛を受け入れても、ロットバルトの愛を受け入れても自分も家来も殺されてしまいそうな気がします。
結局は何もせずにこのままでいるしかないかも知れない気がします。
しかしその場合、ジークフリートはまたここに来て、なぜ舞踏会に来てくれなかったの?と詰問するでしょう。そして更に求愛を続けるかも知れません。
結局、今までロットバルトにずっと求愛されていたのが、求愛者が2人に増えて、大変になるだけという気がします。
そして・・・オデットは感じていました。白鳥の姿になっているとどうも身体の年齢が早く進むような気がしていたのです。白鳥の寿命を30年、人間の寿命を60年とした場合、単純計算して、白鳥の姿の間に人間の姿でいる時の倍の体内時間が過ぎているとしたら、今自分は本来白鳥に変えられた時から6年経過して18歳のはずが、体内時間としては1.75倍の10.5年経っているかも知れません(*7)。そうなると自分は現在実質23歳ということになります。
そうなると、結局自分も家来たちも早く寿命を消費してしまい、早死にすることになるのではないかと。それは自分はいいとしても家来たちは可哀相だと思いました。
やがて、太陽が西に沈み、暗くなって月も昇ってきますと、オデットはいつものように人間の娘の姿に変わりました。
オデットは意を決すると、聖堂の所に行きました。ここにジークフリートの家来かと思われる人たちが何か荷物を運んできていたのは白鳥の姿のまま見ていました。
ところが実際に聖堂に入ってみると、それらしき荷物が見当たらないのです。
「あれ?あの人たちどこに荷物を置いたのだろう?」
と思い探すのですが、見つかりません。
困っている内に数人の家来たちが白鳥から人間の女の姿に変わり、オデットの傍に来ました。
「オデット様、もしかして舞踏会に行かれるのですか?」
「うん。行って、ジークフリートの愛を受け入れようと思う」
「オデット様、あの方が好きになったんですか〜?」
「ちょっと考えたことがあるんだよ」
「オデット様が、そうなさりたいのでしたら、私たちは止めませんけど」
「それでジークフリートが豪華なドレスをここに置いていってくれたはずなんだけど見当たらないんだよ。ごめん。一緒に探してくれない?」
「はい」
それでオデットも、家来たちも探し回りますが、それらしきものは見つかりません。家来たちが次々に白鳥から人間の女に変わるので、みんなで一緒に探すものの、どうしても見つかりません。
「おかしい。どうしたんだろう?」
とオデットは困って言いました。
ひとりの家来が言いました。
「オデット様。ドレスと馬車くらい、私が何とか調達します。それでお城においでになってください」
「分かった」
それで家来は近くの村に行き、そこの村長に、自分はヴァイセフルス伯の家来だったもので、親戚の姫君とともに旅をしてきたが、服と馬車を盗まれてしまったので、申し訳無いが、適当なドレスと馬車を貸して欲しいと言いました。村長は驚き
「それはお気の毒な。私は伯爵に恩があります。お貸ししましょう」
と言って、かなり豪華なドレスと馬車を貸してくれました。
それで家来は湖まで戻り、オデットにそのドレスを着せて従者(女の姿なので実質侍女)が8人付いてお城へと急ぎました。
これがもう22時過ぎのことでした。
一方、ジークフリートは、訪問客が16時頃にいったん途切れたので、私室に入って少し仮眠しました。
そして17時半頃、身だしなみを整えてから、舞踏会の会場である城の広間に行きました。
18時に、ファンファーレが鳴り、王太后陛下の開会宣言があって舞踏会は始まりました。
最初は王太后とジークフリートのふたりで会場内を回り、集まってくれた人たちに挨拶をしていきます。ひたすら挨拶に回り、20時をすぎた所で一休みしていると、
「国王陛下、**国の第3王女****様でございます」
と紹介されます。
長時間歩き回って実は疲れているのですが、そんなことは言ってられないので笑顔で挨拶し、立ち上がって一緒に踊ります。10分ほど踊って楽団がいったん音楽を止めた所で挨拶して自分の席に戻ります。
しかし少し休んでいると、また
「国王陛下、**公の第1息女****様でございます」
と紹介されます。
それで笑顔で応じて、その姫と踊ります。そして音楽が途切れた所で挨拶して席に戻ります。
これを5度繰り返した所で、母が招待した花嫁候補とは全員1度踊ったのですが、更に有力諸侯の娘が紹介され、その娘たちとも踊ります。
そうやって色々な娘たちと踊りながら、ジークフリートはオデットの来るのを待っていました。しかしオデットはなかなか姿を現しません。
21時半をすぎた所で、王太后は
「このあたりでよかろう」
と言い、舞踏会をいったん中断させます。
そして今夜ジークフリートと踊った花嫁候補に並ぶように言い、ジークフリートには花束を渡します。
「この花束をそなたが選んだ娘に渡すように」
と王太后は言いました。
ジークフリートは困ったなと思いながらも花束を受け取ります。そして期待を込めた表情の娘たちが並んでいる前を2往復しました。
そして言いました。
「ごめんなさい。みな素敵な女性ばかりですが、私が好きになった女性はいません」
花嫁候補の姫たちは全員悔しそうな顔をしています。王太后は落胆の色を隠せませんでした。
それで仕方ないので、王太后が本日の舞踏会の終了を宣言しようとした時のことでした。
派手なラッパの音が響き
「遅くなった」
と言って、27-28歳くらいの立派な身なりの男性が若い娘を伴って入ってきました。
「オデット!」
と思わずジークフリートは叫びました。
「あれは私どもが用意して聖堂に運んだ衣裳です」
と傍で侍従がささやきます。
「オデット、来てくれたのか。待ちわびたぞ!」
と言って、ジークフリートはオデットの傍に駆け寄り、手を取りました。
王太后はお気に入りの侍女と顔を見合わせています。
「国王陛下、遅くなって申し訳無い。お詫びに私が連れて来た者たちの踊りを余興にご覧に入れましょう」
と娘を連れて来た男性は言いました。
実際オデット(と王は思い込んでいるが実はオディール)を連れてきた男性の指示で様々な踊り手が入って来て、パフォーマンスをします。
ハンガリーの踊り、ロシアの踊り、スペインの踊り、ナポリの踊り、マズルカ(ポーランドの踊り)と続き、広間に集まっている多数の招待客の目を楽しませました。王太后も、この者、物凄い権力と財力を持っているようだなと思い、結構気に入ります。ジークフリートが気に入ってくれるなら、この者でもよいかと考え始めました。
やがてオディールは王子を誘い、ふたりで踊り始めます。この踊りもかなり長時間続きました。
(ここがこのバレエの最大の見せ場であり、この踊りのクライマックスにはオディールの32回転グランフェッテがあります。プリマの技術力と体力の魅せ所です)
王は王太后にいったん返していた花束をくれるように言います。王太后も微笑んでその花束を王に渡します。そしてジークフリートはその花束を持ってオデット(とジークフリートは思い込んでいる)の前に歩み出ました。
一方、本物のオデットは侍女たちに馬車を急がせていました。
オデットが考えていたことはこうでした。今のままではみんな早く死んでしまう。やはり何とか魔法を解かなければならない。そのためにはジークフリートの愛を受け入れてしまおう。それで魔法が解けて自分も家来も男に戻ってしまったら、国王は怒るだろう。
でもそこで国王に自分はお願いする。
自分は死刑にしていい。でも家来は助けてやって欲しいと。ジークフリートは昨夜話した感じでは、かなり柔らかい性格だ。自分がちゃんとお願いすれば、そのくらいは聞いてくれる可能性が大きい。
自分はその可能性に賭けるしかない。万一の時は、ヴァイセベルジュ公を頼れば下々の者20人くらいは何とかしてくださるだろう。
オデットはそう考えたのです。
湖からお城までは結構な距離があります。湖を出たのが22時頃でしたが、何とかお城に辿り着いたのは、もう23時近くでした。
「オデット様のお着き!」
と馬車から飛び降りて先に駆け込んできた侍女が大きな声で叫びます。
「え!?」
と言ってジークフリートは振り向きました。
「オデット!?」
「国王陛下、大変遅くなりました。実は拝領したドレスを何者かに奪われてしまったのです。何とか他のドレスを調達して駆けつけて参りました」
とオデットは謝りました。
「オデット、確かに君、オデットだよね?」
「はい、そうですが」
とオデットは困惑しながら答えます。
「だったらここにいるのは?」
と言ってジークフリートは振り返りました。
そこに居たのも、確かにオデットと思っていたのですが、ジークフリートがあらためて見ると、ジークフリートが渡したドレスを着た娘はいつの間にかオデットとは似ても似つかぬ顔になっていました。
「誰だ君は?」
とジークフリートが訊きます。
「これは私が妹、オディールだ」
と彼女を連れて来た男性が言いました。
「ロットバルト!?」
とその男性を見て、本物のオデットが叫びました。
「嘘!?」
「ジークフリート王、君は今確かに我が妹、オディールに花束を渡し、永遠の愛を誓った」
とロットバルトが言います。
「そんな!?」
とオデットが言います。
「間違いだ。これは間違いだ。取り消す」
とジークフリートは取り乱して言いますが、ロットバルトが言います。
「国王の言葉に二言があってよいものでしょうか?言ったことはちゃんと守っていただかないと、国民の信を失いますぞ」
「それともうひとつ。国王陛下は一度、我が妹に永遠の愛を誓った。だから陛下が再度、オデットに愛を誓っても、オデットの魔法は解けませんな」
とロットバルトは言います。
「うっ・・・・」
「オデットよ。私の愛を受け入れろ。そしたらちゃんと魔法は解けるぞ」
「こんな。。。。こんな、はかりごとをして人を騙すようなゲスに私は愛を捧げることはない」
とオデットは怒って言い放ちます。
「あはははは。まあ、お前を口説く時間はある。オディール、帰るぞ。嫁入りの支度をせねば」
と言って、ロットバルトはオディールを連れて立ち去っていきました。
そして王太后はとんでもない事態が起きて、ジークフリートが魔物の類を妃に選んでしまったことにショックを受け、気絶してしまいました。
そしてオデットも、この展開にショックを受け、馬車に戻ると、湖に帰っていきました。
■第4幕 湖にて
湖に辿り着くとオデットは家来たちに謝ります。
「みんな、ごめんね。魔法を解いてみんなを元の姿に戻してあげられるチャンスだと思ったんだけど」
「オデット様。我々は今のままでも大丈夫です。どうか気を落とされませんように」
と家来たちはオデットを慰めました。
ロットバルトはオデットたちの前に姿を現し
「あんな頼りなさそうな王より、我が妻になれば何でも与えてやるのに」
などと言っています。
「お前のことは徹底的に嫌いになった。絶対にお前の言うことは聞かん」
とオデットが言うと、ロットバルトは
「ちょっと来い」
と言って、オデットを無理矢理拉致し、空を飛んで、聖堂の上に連れてきました。
「何をする?」
「物は相談だ。ここだけの話だが、取り敢えず一晩だけでも俺の嫁にならんか?そうしたら家来たちは元の姿に戻してやる」
オデットはロットバルトを睨み付けました。しかし少し考えるようにしてから言いました。
「その話、少し考えさせて」
「よしよし」
とロットバルトは楽しそうでした。
ところがその時のことでした。
「ロットバルト、出てこい!」
という大きな声がします。
ジークフリートでした。松明(たいまつ)を掲げ、剣も下げています。
「私と決闘しろ。お前を倒して、魔法を解き、オデット姫を解放する」
ジークフリートはそう叫びました。
ロットバルトはまた楽しそうな顔をしました。そしてジークフリートに向かって言いました。
「よかろう。国王陛下。そなたの肩には何百万もの民の運命が掛かっているというのに、それでも私と対決なさるか?」
「ロットバルト、そこに居たのか。姫から離れろ。私は軟弱者だが、お前に騙されたままでは国民が私を信任しないだろう」
「そこまでお覚悟があるなら決闘しましょう。私は手加減はしませんぞ」
「望む所だ」
オデットが
「そんなのやめて!」
と大きな声で言ったものの
「姫は見学なさるがよい」
と言って、再びオデットを抱えて聖堂から飛び降り、家来たちの中にオデットを置きました。
「お前たち、姫をしっかりお守りしていろ」
とロットバルト。
「もちろんだ」
と家来たちも言い、オデットを取り囲みました。
ジークフリートとロットバルトが5mほど離れて睨み合います。
「勝負の方法は?」
とロットバルトが訊きます。
「どちらかが死ぬまでやる」
とジークフリートは答えます。
「憐れ。この国は国王を失うのか」
とロットバルトは言いましたが
「お前の魔法が消えるのだ」
とジークフリートは言い、剣を抜きました。
しかしロットバルトは剣を抜きません。
ジークフリートが剣を持って突進してきますが、ロットバルトはひょいとその剣をかわして横に飛びのき、ジークフリートの腕を素手で強打しました。
思わずジークフリートは剣を落としますが、すぐに拾うと、またロットバルトに掛かっていきました。
ふたりの戦いは5分ほど続きますが、それでもロットバルトは剣を抜きません。
「この勝負の結果は、あまりにも明らかだ」
とオデットを守護している家来のひとりが言いました。
「ジークフリートはロットバルトにかなわない?」
「全く勝負になりません。ロットバルト殿が剣を抜かないことでも分かるでしょう?」
「ジークフリートが負けるとどうなるの?」
「国王がいなくなるので、王太后様がいったん女王を継承して。どこかから養子を迎えて、その方に継がせることになるでしょう」
「そんな・・・・」
しかし10分ほど戦いが続いた時、ジークフリートの剣が微かにロットバルトの服を切りました。
「なかなかやるな」
とロットバルトは言うと、やっと剣を抜きました。
「ああ・・・これでもう終わる」
とオデットの傍にいる家来が言います。
「オデット様、どうか御目をお閉じ下さい。これは見るべきものではありません」
「いえ、私は全てをしっかり見ます」
激しい息づかいのジークフリート、そして全く息の乱れていないロットバルトが厳しい顔でにらみ合います。
ふたりが剣を構えてぶつかり合いました。
ふたりとも静止しています。
そしてロットバルトが倒れました。
「嘘!?」
オデットは家来たちの腕を振り切るとジークフリートに駆け寄りました。
「ジークフリート様、ジークフリート様」
と涙を流してその身体に抱きつきます。ジークフリートも剣を落として激しい息をしながら、オデットを抱き返しました。
オデットの家来たちの手でロットバルトは聖堂の傍に埋葬されました。
そしてみんなで手を合わせました。
「魔法は日出の太陽の光を浴びると解けるはずです」
と家来のひとりが言います。
オデットはじっとロットバルトの墓標を見ていました。そしてジークフリートに言いました。
「ジークフリート様。私からお願いがあります」
「何だね?オデット」
「魔法が解けたらですね。きっと、ジークフリート様が激怒なさることが起きます」
「何それ?」
「その時に、私はジークフリート様の好きなようにして頂いて構いません。でも家来たちは許してあげてもらえませんか?」
ジークフリートは少し考えてから答えました。
「どのようなことで君が私を怒らせるのかは分からない。でも君のたっての頼みだ。騎士に二言はない。家来たちの罪は問わない」
「ありがとうございます」
空がどんどん明るくなってきます。あたりはもう完全に朝の雰囲気です。
普段なら、もう家来たちの何人かは白鳥の姿に変わるはずなのですが、今日は変身せず、人間の女の姿のままです。
それでみんなロットバルトの魔法が無効になっていることを認識しました。
東の地平から、太陽が顔を見せました。
「おぉ」
という声があがります。
これまで人間の女の姿であった家来たちが次々に男の姿に変わっていきます。
「これはどうしたことだ?」
とジークフリートが驚いて言います。
「みんな元々男の家来だったのです」
とオデットは言いました。
「そうだったのか!」
「それが魔法で昼は白鳥、夜は人間の女になるようになっていたのです」
「全然気付かなかった!」
「そして私も同じなのです」
「え!?」
「私も本当は男の子なんですよ」
「そんな馬鹿な!?」
「それがやはり魔法で昼は白鳥、夜は人間の娘になるようになっていました」
「え〜〜〜!?」
「ほら、この通り」
とオデットが言った時、オデットは6年前にこの湖に遊びに来ていた時の服装に戻ってしまいました。
しかしそれを見て、ジークフリートは悩むように言います。
「君、男の子なんだっけ?」
「そうですけど」
「女の子に見えるんだけど」
「どうもそれをロットバルトも勘違いしていたみたいで」
「うーん・・・」
と悩んだ上でジークフリートはオデットの耳のそばに口を近づけ、小さな声で囁くように言いました。
「付いてるの?」
「付いてますよ。触っていいですよ」
それでジークフリートはオデットのお股に触りました。
「ほんとに付いてる!」
「陛下。そういう訳で私は男の方とは結婚できない身体なんです。私の名前もオデットはオデットでもOdetteではなく、Odetなんですよね」
「うむむ」
「陛下、さぞお怒りのこととは思います。私は死刑で構いません。でも先ほどお約束して頂いたように、どうか家来たちは許してあげてください」
とオデットは言いました。
ジークフリートは腕を組んでしばらく考えていましたが、やがて言いました。
「オデット、君さあ。男の子ではあっても、女の子にしか見えないから、普通に女の子の服を着て、ボクのお嫁さんになってよ」
「え〜〜〜!?」
とオデットは驚いて言います。
「だいたい君は自分を好きにしていいと言った。だからボクの妃になってもらう」
「でも、でも、私はお世継ぎを産めませんよ」
「そうだなあ。それは側室でも取ればいいと思う。ボクが側室を取ったら嫌?」
「構いません。だって誰か女の人に子供産んでもらわないと、いけないもの」
そんなことを言った時のことでした。
「こうしようよ」
という声がします。
見ると、オディールです。
「お前は!?」
「ジークフリート、あんたが私に花束を渡した時、私はオデットの姿だった。だから、あんたは間違い無くオデットに花束を渡したんだよ。だから、オデット、あんたが間違い無く、ジークフリートの花嫁ということでいいじゃん」
「オディールちゃん・・・」
「だから、あんたたち結婚しなよ。でもオデットが男の子というのは私も気付かなかったよ。確かにそれでは赤ちゃん産めないよね」
「うん」
「だからちゃんと赤ちゃんを産めるように、女の子に変えてあげる」
「え〜〜〜!?」
「女の子になるの嫌?」
オデットは一瞬考えたものの、
「私が女の子になって、陛下の妃になったら、家来たちは許してくれますよね?」
とジークフリートに確認する。
「ボクはもとより君の家来たちを処分するつもりは無かったよ」
とジークフリートは言いました。
「じゃ、それでいい。やっちゃって」
と言って、オデットは目を瞑りました。
「OKOK」
と言ってオディールは杖を取り出すと、その杖でチョンと“ジークフリート”のお股に触れました。
「え!?」
「女に変えたよ。末永くお幸せにね」
とオディールは言うと、ロットバルトの墓標を引き抜きました。
するとその墓標と一緒にロットバルトが出てくるので、みんな仰天します。
「いやぁ、死んだふりするのも大変だった」
などとロットバルトは言ってます。
「まあ色々俺も楽しませてもらったから、これで勘弁してやるわ。幸せにな。ちなみに俺は男の娘でもちゃんと愛せるぜ。オデット、お前のことは今でも好きだよ」
と言って、ロットバルトはオディールと一緒に、フクロウの姿に変身して、どこかに飛んでいってしまいました。
「陛下、お身体に何か変化は?」
とオデットが言います。ジークフリートは自分のお股に触ってから叫びました。
「女になってる!」
オデットはジークフリートの胸にも触り
「凄い大きなおっぱい」
と言いました。
その日、国王ジークフリートと、ヴァイセフルス伯息女オデットとの婚約が発表されました。
ヴァイセフルス伯の子供は男の子と思っていた人が多かったのですが、実は双子の女の子がいて、そちらもオデットという名前だったのだということにしてしまいました。確かに昔は双子が生まれると不吉だとして、居なかったことにして片方を臣下の元で育てるなどということがあったのです。
ヴァイセベルジュ公も
「亡くなった兄君にそっくりじゃ。間違い無く、この方はヴァイセフルス伯のご令嬢に間違いありませんよ」
と証言しました。
そして半年後、ふたりは盛大な結婚式を挙げて、1年後には立派なお世継ぎが生まれました。
もちろん、産んだのはジークフリートです!
「まあ国王が男装女子で、妃が女装男子というのもいいよね」
などとオデットは、赤ちゃんに授乳しているジークフリートに言いました。
「オデット、君はよく6年間も女の身体で耐えられたね」
「ジークは最初めそめそ泣いていたね」
「今でも辛いよぉ」
「でも結果的にちゃんとお世継ぎも得られたし、めでたしめでたしだよ」
とオデットは赤ちゃんを撫でながら言います。
「国王陛下、皇后陛下、臣下からたくさんお祝いの品が届いていますよ」
と言って入って来たのは可愛いドレスを着た家庭教師のヴォルフガングです。
「君のドレス姿もかなり板に付いてきたね」
とジークフリートは言います。
「今更男に戻れないので、開き直りました。これやってると結構楽しいですよ」
「ヴォルフィ、あなたもいっそのこと女の身体に変えてもらう?」
「それは勘弁して下さい」
そんな会話を窓の外で聞いている2羽のフクロウが居ました。
「どうする?兄さん」
「オデットが言っているから、あいつも女にしてやろう」
「明日の朝起きたら、びっくりね」
そんな会話をしてから2羽のフクロウは飛んで行きました。
■野暮な解説
(*1)「白鳥の湖」は英語ではSwan Lake、ロシア語ではЛебединое озеро(リビヂーナヤ・オージラ)である。лебедь(リェビッジ)が白鳥で、Лебединыйはその形容詞形。озероは湖だが、中性名詞なので、それに掛かる形容詞の語尾がоеと変化している。
つまり直訳すると「白鳥がいるような湖」という感じ。
主人公の名前はチャイコフスキー(Чайковский, Tchaikovsky)の原作ではОдетта(オデッタ)であるが、英語圏ではOdette(オデット)になっている。
キャラ名対照
オデット Одетта(オデッタ) Odette(オデット)
オディール Одиллия(オディーリヤ) Odile(オディール)
ジークフリート Зигфрид(同左) Siegfried(同左)
ロットバルト Ротбарт(同左) Rothbart(同左)
Odetteという名前はOda(オダ)という女性名に小さいもの・可愛いものを表すtteが付いた形である。Odaの男性形はOdo(オド)であり、Odetteの男性形はOdet(オデット)である!
(Odet, Odetteは英語ではどちらも「オデット」だが、実はドイツ語の場合はOdetteの方は最後に曖昧な母音が付いて「オデッタ」にも聞こえる。ここでは相手が女性と思い込んでいることから生じた聞き間違いということにしておく)
なおOda/Odoというのは領主という意味の高地ドイツ語Otをルーツにしている。つまりOdaが女領主様で、Odetteは若い女領主様なのである。そういう意味でオデット姫というのは、洞爺湖のようなものである(トーヤが元々アイヌ語で湖の意味)。
またロシア語のОдеттаはこのドイツ語系のOdetteをルーツにするものとギリシャ語のOδεατα(香り)をルーツとするものがある。またアルバニア語ではodetteというのは「海」を表す。
(*2)ロットバルトは現在演じられている「白鳥の湖」では男性であるが、初期の台本では、これに相当する役はオデットの継母であった。つまり最初はオデットを白鳥に変えたのは女性のキャラであった。その後、継母の召使いとしてロットバルトのキャラが出てきて、その内、継母は出てこなくなってロットバルトが直接オデットを虐げるストーリーとなる。
ロットバルトがなぜオデットを白鳥に変えたのかは、この「前妻の娘をいじめる継母」という構図が崩れた後、理由不明になってしまったが、可憐な乙女に恋をしたが、言いなりにならないので白鳥に変えて湖に幽閉したというのが、最近出ているひとつの説で、今回の物語は、それを表現するために付け加えられたプロローグの流れを踏襲している。
プロローグでは、人間態を現すロマンティック・チュチュ(後述)を着てロングヘアのオデットが、ロットバルトの魔法により、クラシック・チュチュを着て、髪をまとめてティアラをつけた白鳥態のオデットに早変わりするシーンが見られる。(Princess Odette -> Swan Odette)
下記は2005年のAmerican Ballet Theatreの公演(初演は2000年)。この公演ではロットバルトの方は早変わりが困難だったのか、2人のバレリーノによって演じられている。
https://youtu.be/44tiD32nL-g
アメリカン・バレエ・シアターは世界五大バレエ団のひとつ。ここで
五大バレエ団とは
・マリンスキー・バレエ(サンクトペテルブルク:旧名レニングラード)旧キーロフ・バレエ
・パリ国立オペラ座(パリ)
・ロイヤル・バレエ(ロンドン)
・ボリショイ・バレエ(モスクワ)
・アメリカン・バレエ・シアター(ニューヨーク)
の5つを言う。
山岸凉子さんの名作『アラベスク』はキーロフ・バレエ団の団員養成学校(ワガノワ・バレエ・アカデミー、Академия русского балета имени А. Я. Вагановой、作中ではレニングラード・バレエ学校)を舞台とした物語。旧ソ連をはじめとする地域から3000-4000人の受験者があり、合格するのは60名ほど。その中で卒業まで到達できるのは25人ほどで、残りは途中で脱落すると言う。女子の場合50kgを越すと男子がリフトできないという理由で50kg以下になるまでダイエットを命じられる。むろんダイエットできなかったら退学である。ロシア人の身長でこの体重制限は厳しい。
なおワガノワはアグリッピーナ・ワガノワ(Агриппина Яковлевна Ваганова, 1879-1951)のことで、自身は現役時代、それほど評価された訳ではなかったものの。引退後このバレエ学校で、指導者として活躍。イリーナ・コルパコワなど多数の優秀なバレリーナを育てた。そこで1957年以降、彼女の名前がこの学校に冠されることになった。また彼女の教授法はワガノワ・メソッドと呼ばれ、世界中に広まっている。
バレエの衣裳として基本であるチュチュだが、普通の人がチュチュと聞くとイメージする、短いスカートがほとんど横に立ったような形をしているのがクラシック・チュチュ。これは19世紀末にロシアで生まれたもので、まさに「白鳥の湖」の時代に登場したものである。白鳥という鳥の動きを表現するのにこのスカートの形が適していたのである。
ロマンティック・チュチュは19世紀前半にフランスで盛んになったロマンティック・バレエで愛用されたもので、ふんわりとした長いスカートのチュチュである。「ラ・シルフィード」「ジゼル」などがこのチュチュを使用する。
(*3)ヨーロッパではだいたい1960年代頃まで成人年齢は21歳であったが、その後、学生運動の高まりなどを受けて多くの国で18歳まで成人年齢が引き下げられた。
選挙に参加させることで不満を吸収し、学生運動を沈静化させる目的があった。また、多くの国で18歳で徴兵される制度があったため、徴兵されるなら選挙権もという流れもあった。
(*4)白鳥の湖の幕構成については下記の2通りの流儀がある。
第1幕第1場/第1幕第二場/第2幕/第3幕
第1幕/第2幕/第3幕/第4幕
3幕方式の第1場・第2場が、4幕方式の第1幕・第2幕に相当する。
(*5)白鳥の湖で出てくる白鳥はコブハクチョウ(Mule Swan)と言われる。
コブハクチョウはヨーロッパで夏を過ごして繁殖し、冬になると寒さを避けてアフリカ北岸などに渡って行く。コブハクチョウがヨーロッパに戻って繁殖を始めるのはだいたい4月下旬から5月上旬である。
つまり日本では白鳥は冬の鳥というイメージがあるのだが、ドイツやロシアでは白鳥は夏の鳥である!
コブハクチョウは基本的に一度結婚した相手と、一生添い遂げるが、相手が死んでしまった場合は、若い異性と再婚する場合もある。もっともごく稀に生存しているのに離婚する場合もあるらしい。
(*6)この物語の舞台はドイツとされる。
ドイツの例えばベルリンで計算してみると、夏至の太陽は夜21:30頃に沈んで朝4:43頃に登るので、日入から日出までが7時間ほどしか無い。これが日暮れから夜明けまでなら5時間ほどとなり、天文薄明になると、2018年の場合、5月19日から7月24日までの間、天文薄明が終わらない。つまり一晩中空が明るいままである(太陽自体は沈んでいるので「白夜」ではない)。
物語の時期を4月下旬と考えて例えば2018年4月30日の夜の場合
日入 20:29 日暮 21:19 薄明終了 23:03 薄明開始 3:01 夜明 4:45 日出 5:35
であり、日入〜日出 9:06 日暮〜夜明 7:26 薄明終了〜開始 3:58 となる。
これが東京だとこういう時間である。
日入 18:26 日暮 19:01 薄明終了 20:01 薄明開始 3:15 夜明 4:15 日出 4:50
であり、日入〜日出 10:24 日暮〜夜明 9:14 薄明終了〜開始 6:14 となる。
なお、実際にチャイコフスキーが「白鳥の湖」の構想を練ったのは、モスクワのノヴォデヴィッチ修道院(Новодевичий монастырь, Novodevichy Convent)そばにある小さな池らしい。
(*7)人間の姿に戻れる時間は、夜の間で、しかも月が出ている間なので、大雑把に計算して、夜の時間12時間÷2で6時間と考える。つまり1日の4分の1である。
それでn年間の内、0.75nを白鳥の姿、0.25nを人間の姿で過ごしていた場合、0.75nの間に倍の1.5nの時間が経過したとすると、合計1.75n時間の体内時間が過ぎていることになる。
従って、現実の6年間に体内時間としては10.5年が過ぎた計算になる。
(*8)バレエでは伝統的に、オデットとオディールは同じバレリーナが演じることになっている。
はかない感じのオデット(情緒性と表現力が必要)と、元気いっぱいのオディール(技術力と体力が必要)の両方をひとりで演じるのはひじょうに大変なことで、バレリーナとしての総合力が求められる。
演劇関係で同じ人が演じることが定着しているものとしては、ピーターパンのフック船長とウェンディの父などもある。
(*9)白鳥の湖の結末は実に様々なバリエーションがある。
現在主に上演されているパターンは、ふたりが死んであの世で結ばれるという悲劇的版と、ジークフリートがロットバルトを倒して魔法が解け、現世でふたりが結ばれるというハッピーエンド版の2つの立場に別れる。一般にハッピーエンド版はロシアで人気らしい。それ以外に、ジークフリートのみ死ぬ版、オデットのみ死ぬ版もある。またロットバルトを倒したのに魔法が解けず、結局みんな死んでしまうというバージョンもある。
最初に上演された1877年の台本では、ジークフリートはオディールの色香に迷ってオデットを裏切り、最後は自暴自棄になってオデットを道連れに無理心中してしまうという酷い筋で、当時全く人気が出なかった訳が分かる気がする。
あまりにも不評だったため、長く演じられることが無かったものを18年後の1895年にマリウス・プティパが大胆に改訂して再演し、これから白鳥の湖はバレエの人気演目となる。この後の「白鳥の湖」の台本は全てこのプティパ版を下敷きにしている。
このプティパ版ではジークフリートはオディールをオデットだと思い込んで愛を誓うという形になり、また絶望したオデットが自殺して、ジークフリートもそれを追って自分も死ぬという形になった。
もっとも国王ともあろうものが、恋人が死んだのを追って自殺というのは極めて無責任である。
その後、ジークフリートがロットバルトを倒して魔法が解け、ふたりは現世で結ばれるというハッピーエンド版が作られたのだが、そういう版を最初に作ったのが誰かというのが、よく分からない。
ネットで検索すると「1937年のメッセレル版で採用され」という文言が判で押したようにあちこちに書かれているが、その確かなソースを確認できない。
そもそもメッセレルというのが誰かというのもよく分からない。メッセレルというと、一般にラヒーリ・メッセレル(1902-1993)、アサフ・メッセレル(1903-1992)、スラミフィ・メッセレル(1908-2004)の姉兄妹が知られている(他に俳優になった兄弟もいる)。ボリショイで振付師として活躍したアサフの可能性があるが、スラミフィの可能性も否定できない(年齢的には厳しい)。またアサフあるいはスラミフィが1937年に、そのような台本を書いたという確かな情報源を見つけることができなかった。
アサフは1920年代半ばから脚本家としても活動しており、ボリショイだけでなくСиняя блуза(直訳すると「青シャツ」)という小劇場の監督も務めている。
"1957年"にアサフが台本を書き、マイヤ・プリセツカヤが主演した白鳥の湖の映画は存在するようである。
http://www.imdb.com/title/tt0165855/
20世紀最高のプリマともいわれるマイヤ・プリセツカヤ(1925-2015)は、ラヒーリの娘である。つまり、アサフは姪が主演する映画の台本を書いたことになる。
マイヤはラヒーリと技術者をしていた父との間に生まれたが、12歳の時に、父親が粛正され、母のラヒーリもカザフに追放されたため、叔母スラミフィの養女となって育った。スラミフィは後に来日し、東京バレエ団の指導者として日本のバレエ界に多大な貢献をした。スラミフィはバレリーナと水泳選手を兼ねていて、一時期は100mクロールのソビエト記録を持っていた。
なお、↓の掲示板の書き込みにはワガノワ(前述のアグリッピーナ・ワガノワか?)が1930年代にハッピーエンドで上演しており、またメッセレルもかなり早い時期にハッピーエンド版を制作しているということが書かれているが、この書き込みの信頼度がどのくらいあるかは分からない。この書き込みがもし正しければボリショイより先にキーロフがハッピーエンド版を上演した可能性もある。
https://balletalert.invisionzone.com/topic/25344-most-memorable-swan-lake-endings/?tab=comments#comment-239987
【白鳥の湖】(1)