【女装太閤記・激闘編】(1)

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永禄11年(1568年)、織田信長は上洛を強行し、幕府の将軍として足利義昭を擁立した。この時、秀吉は京都守護を命じられるが、この時、一緒に京都守護に命じられたのが公家方から推挙されて織田家臣として組み入れられた明智光秀であった。彼と会った時、秀吉は思わず光秀に言った。
 
「十兵衛殿、お懐かしゅうございます」
「そなたとどこかでお会いしたろうか・・・・」
 
すると秀吉は席を立ち、少し経ってネネがやってくる。
 
「ヒロ殿!」
 
それは光秀にとっては20年近く前に出雲で会った少女であった。
 
「木下藤吉郎秀吉の妻、ネネにございます」
「おお、藤吉郎殿の奥方になっておられたのか!」
 
するとネネはいきなり明智光秀に抱きついた。
「ちょっと、ちょっと何をなさる?」
 
「僕だよ。分かんない?」
「へ!?」
「藤吉郎とネネは同一人物。十兵衛お兄ちゃんだけに教える秘密ね」
 
光秀は口をパクパクさせて、何を言っていいか分からない感じであった。
 

この京都守護をしていた時期、家臣団にしばしば混乱が生じていた。
 
ある日、石田三成が庭に立っていた人物に声を掛ける。
「殿、又左衞門様(前田利家)から、美味しそうな枇杷を頂きました。みんなで食べましょう」
 
「ん?」
と言って振り返った人物を良く見ると、秀吉と思っていたのに光秀だ!
 
「失礼しました! てっきりうちの殿と勘違いを」
「枇杷か。良かったら、少し分けてくれ」
「ははぁ! ただいまお持ちします」
「藤吉郎殿は書庫で何やら調べ物していたぞ」
「ありがとうございます」
 
ある時は斎藤利三(春日局の父)が執務室に入ってきて
「殿、関白殿(二条晴良)より維摩経義疏の写本をお持ちでないかと問合せがあったのですが」
 
すると執務していた人物は顔を上げると、
「そういう書物とかの話は十兵衛殿にしてくれ」
と言った。斎藤はてっきり自分の主君である光秀と思ったのだが、実際には執務していたのは秀吉であった。
 
「失礼しました!」
「そうそう。昨日十兵衛殿から頂いた猪は美味かった。みんな感謝していたと伝えておいてくれ」
「はい、かしこまりました!」
 

そういう訳で、しばしば光秀と秀吉を間違える家臣が続出したのである。
 
丹羽長秀なども
「確かに藤吉郎殿と十兵衛殿は雰囲気が似ているなあ」
などと言う。
 
「まあ僕の方が若いけどね」
と秀吉。光秀は秀吉より9つ年上である。
 
「年齢はよく見ないと分からん。髪の少ない方が十兵衛殿で、多い方が藤吉郎殿だな」
などと中川重政。
 
「でも昔、出雲で会った時も兄と妹のようだと言われたんだよ」
と秀吉は言う。
 
「妹!?」
「当時の藤吉郎殿はおなごのように可愛い顔をしていたのだよ」
と光秀。
 
「ほほぉ」
「実際、僕は主として刀鍛冶の人たちの御飯を作ったり掃除をしたりといった仕事をしていたから、下働きの女中という感じだったんだけどね」
と秀吉。
 
「そういう少女時代の藤吉郎殿というのを見てみたかったですな」
と長秀。
 
「刀鍛冶ですか。十兵衛殿も御実家は確か刀鍛冶の家でしたね?」
と重政。
 
「うん。若狭の方なんだけどね。それで鉄砲の製造に関わることになって、それで早い時期から鉄砲に親しんでいたんだよ」
と光秀は答える。
 
そんなことを言いながら、光秀は秀吉を複雑な視線で眺めていた。
 

この信長上洛の少し前、信長は北近江の浅井長政と同盟(結果的に浅井の盟友である朝倉ともつながることになる)し、妹のお市を長政に嫁入りさせていた。この時、ネネの友人の娘で、よく一緒に領内の見廻りなどもしていたミチが、お市様付きの腰元として一緒に浅井家に赴いた。
 
この時ネネはミチに言った。
「殿様(信長)は浅井様を盟友として信頼なさって大事な妹君を嫁がせるみたいだけど、私の勘が言っている。絶対一波乱・二波乱ある。ミチは結構武術ができるよね?お市様をしっかり守ってあげて」
 
「うん。武術の心得のある私をお市様に付けるということ自体、上総介様(信長)が今回の婚儀をどう思っているかを表している気がする。気は抜かない。自分の命に代えてもお市様を守るよ」
 
ミチはそう厳しい表情でネネに言って、小谷城へと向かった。
 

信長は役職を与えるという話を黙殺して、京都は秀吉と光秀に任せ尾張に帰還する(この時弾正忠の官位をもらい、従来自称していた上総介に代わって名乗るようになる)。ところが、その信長が帰還した隙を突いて、美濃国を落とされて亡命していた斎藤龍興が三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と組んで京都に攻め入ってきた。
 
これを秀吉・光秀の軍と、浅井長政の軍が協力して撃退する。信長も急を聞いて京都に駆け付けるが、信長が来た時には既に戦いは決着していた。秀吉は「浅井も一応は信頼していいのかな?」とこの戦いで思った。
 
信長はこの三好三人衆に協力した高槻城の入江春景を処刑。高槻城には室町幕府の幕臣である和田惟政を入城させた。また信長は伊勢を攻めて北伊勢の神戸家には三男の織田信孝を、南伊勢の北畠には次男の織田信雄を、それぞれ養子として送り込み、この地域を実効支配することになった。
 
そして永禄13年(1570年)4月20日。再三の上洛命令に従わない福井の朝倉義景に対してとうとう堪忍袋の緒が切れた信長は、朝倉討伐の軍を起こす。信長は浅井と同盟する時に、朝倉とは戦わないという誓いを浅井に対して行っていた。そのためこの討伐戦に浅井は困惑することになる。
 
なお、信長の軍が出発した直後の4月23日、元号は「元亀元年」と改められた。実は元々足利義昭が改元を上奏していたのだが、信長が必要無いと言っていたのである。その信長が京都を出た直後に改元を実行したのは、大いに信長の機嫌をそこねることになる。
 

その信長の軍が北陸に向けて出発する前日。ネネの元に客があった。
 
「ミチちゃん! どうしたの?」
「お市様より密書を預かって来ました」
「何!?」
 
と言ってネネは「密書」を受け取る。
 
「何これ?」
と言ってネネは当惑する。それは小豆の入った麻袋であった。
 
「この中に何か入っているの?」
と言ってネネは袋を開けようとするが、ミチは言った。
 
「開けずにそのまま信長殿に見せてください」
「へ?」
 
と言ったままネネはしばらく考える。その袋は布を筒状に縫ったものの中に小豆が入れられており、両端を紐で縛ってあった。
 
「なるほど、そういうことか!」
 

ネネは直ちに信長の所に赴いた。
 
が、近くに居た丹羽長秀に止められる。
 
「藤吉郎殿の奥方でしたでしょうか? 殿様は今、戦の準備で忙しくしておられる。何用ですか?」
 
「お市の方より兄上に是非というお土産を言付かって参りました」
「お市様ですか! それでは仕方無いですね」
と言って通してくれる。
 
しかし信長は極めて不機嫌である。
 
「ネネ殿。私は今ひじょうに忙しいのだ」
と文句を言うし、
「お市からの土産? それは女同士で適当に分けてもらえませんか」
と言う。
 
「とても大事なことなのです」
と言って、ネネは信長にミチを通して渡された小豆の袋を見せる。
信長は顔をしかめる。
 
「これは嫌がらせか? 私が小豆が嫌いなのを知ってるだろうに(*1)」
「その袋を良くご覧ください」
「ん?」
 
(*1)小豆は信長の好物であったという説と逆に大嫌いだったという説がある。
 
「小豆は弾正忠(信長)様です。左側の紐は朝倉、そして右側の紐は・・・・」
 
信長は驚いたような顔をした。
 
「分かった。これを持って来た使者は?」
「お市様を守る密命を託している、私の友人の腰元です。既に近江に戻っています。何かの時は命に代えてもお市様、お茶々様をお守りします」
 
「分かった。しかし私はこの戦いに行かねばならない。もしこのようなことが起きた時は、そなたの夫に任せるぞ」
「はい、お任せください」
 
ネネがそう返事をすると信長は言った。
「時々思うのだが、ネネ殿はサル(秀吉)より切れるようじゃ」
 
「私と藤吉郎は二人三脚でございます」
「うむ」
 
信長は満足そうであった。
 

そして織田信長・徳川家康の連合軍は福井の朝倉を討伐するため3万人の大軍を進めて行った。秀吉や光秀の手勢も同行して北陸へと進軍していく。その中には、ほんの5年前までは三好三人衆に付いていて13代将軍足利義輝の殺害に加担したものの、その後三人衆と対立して信長方に寝返った松永久秀の手勢もあった。
 
夜。陣中なので簡単な食事の後、みんな寝ようとしていた。そこに女が数人訪問してくる。これは戦場ではとてもよくあることである。雰囲気で組合せが決まりお互いに邪魔しない距離を取って散らばる。出陣前はみんな気合いを入れるため禁欲しているので、久しぶりに抱く女の味は、みな格別である。夜中で相手の顔も年齢も分からないが、勝手に若い美人と想像して楽しむ。
 
久秀もむさぼるように相手との束の間の時間に燃えた。60歳をすぎて実はもう立たないのだが、相手の女はまだ若いようで積極的にこちらを刺激してくれるし、普通に結合できないようだとみると、あそこを舐めてくれたので感激する。久秀は妻とも側室とも久しく睦み事をしていなかったので、久々の快感に全て尽きてしまうような感覚だった。
 
「おぬしまだ若いな。このような仕事をしているのは夫を亡くしたのか?」
と久秀は女に尋ねた。
 
「夫はおりますが、私の趣味です」
「夫が居るのに、こういうことをしているのか。やれやれ困った女じゃ」
などと久秀は言うが、楽しそうである。
 
「それで弾正さまにお願いがあります」
 
久秀はその言葉で一瞬にして頭がクリアになる。
「貴様何者だ?」
 
傍にあった脇差しを抜いて女の喉に突きつける。ところがその脇差しを近くにあった火箸で一瞬速く受け止められてしまった。
 
「木下藤吉郎が妻、ネネにございます」
「何!?」
「実は弾正様に内密のお話があって参りました。弾正様の御家中には色々な方がおられると察しましたので」
 
確かに久秀の家臣の中には、久秀が三好三人衆から離れて信長に付いたことに不満を持っている者たちもいる。
 
「そなたそのために、わざわざ御陣女郎に化けてここまで来て、私とこんなことまでしたのか?」
 
久秀は少し呆れて言った。
 
「この地域で活動している御陣女郎の一団の元締めに、私の古い知り合いが居たので協力してもらいました。私は夫のためというより、殿様(信長)のためでしたら何でもします」
 
「ふむ。確かに織田様は凄いお方よ。だから私も付き従っている。取り敢えず今の所はな。それは藤吉郎殿とて同じだろう?」
 
織田家臣団には、信長個人を崇敬する者より、織田が勝ち馬のようだと判断して付き従っている者の方が多い。
 
「弾正殿は、朽木弥五郎(元綱)殿にツテが御座いますよね?」
「ん?」
「朽木殿に密かにご助力をお願いしたいのです」
 
「今回の朝倉攻めに参加させろというのか?それはちょっと難しいぞ。色々義理がある」
「いえ、ある方を朽木様の領内を通過させたいのです。それに協力して頂けないかと」
 
「なぜわざわざそんな山の中を。琵琶湖の周辺は織田殿の盟友、浅井備前守殿の領地。そこを通せば安全でしょうに」
 
「私はある仮定の話をしております」
とネネは言った。
 
久秀は少し考えていた。
「まさか・・・・」
 
「杞憂であったら良いなと思っております」
「藤吉郎殿はそんな恐ろしいことを考えておられたか」
「お願いできませんでしょうか?」
 
「私の臣下に、元々朽木の家臣であった者がひとり居る。その者を使者に立てる」
「ありがとうございます。恩に着ます」
 
「しかし、藤吉郎殿は、自分の妻が他の者と寝ても構わないのか?」
「そんなことは、織田様の天下布武のためには些細なことでございます」
 
「そうか。藤吉郎殿によろしくな」
「はい」
 

闇に紛れて自分の陣に戻る。
 
「やっと帰って来たか。おぬしの代役も疲れるぞ」
と《秀吉に変装していた》光秀が言う。
 
「ごめんねー。夜しかできない仕事なのよ」
と言って女装のネネは光秀にキスをする。
 
「しかしネネ、そなた本当は男なのか?女なのか?」
 
その問いは光秀が2年前から投げかけているものである。
 
「さあ、どちらかしらね?」
とネネは微笑んで言って、光秀に抱きつき口付けをして、体重を掛け、光秀に押し倒される形になった。
 

信長・家康の連合軍は25日には朝倉の領内に侵攻。手筒山城、翌26日には金ヶ崎城を落とした。朝倉は敦賀から撤退して後退する。信長側は更に北を伺う勢いであった(なお、朝倉義景の居城は現在福井市になっている一乗谷城である)。
 
ところがこの時、琵琶湖沿岸に領地を構えている浅井長政が裏切ったという報せが入る。家臣団はパニックになる。北の朝倉を攻めて敦賀まで来た所で琵琶湖近くの浅井に裏切られたら、こちらは挟み撃ちである。
 
しかし信長は家臣団を一喝した。
「慌てるな。負けはせん」
 
信長の妹が嫁いでいる、盟友のはずの浅井が裏切るというのは、多くの家臣の想定外のことであったが、信長は焦っている様子は無い。この殿がこう言うのであれば、何とかなるかも知れないという空気が広がった。
 
「サル」
と信長は秀吉を呼ぶ。
 
「はっ」
と答えて、秀吉は信長の御前に出る。
 
「かねてよりの指示通りに致せ」
と信長は言うが、実際問題として信長もどうするのかは知らない。
 
「そういう訳で、皆様方、殿のご指示通り、ここは撤退致しましょう」
と秀吉は言った。
 
「撤退するのですか!?」
と驚くような声があがる。
 
「しかし撤退するにしても南側に浅井が待ち構えております」
「だから待ち構える前に帰ってしまうのだよ」
と秀吉は補足する。
 
「全軍、今夜中に尾張方面に向けて移動を開始する。浅井側の迎撃態勢が整う前に通り抜けてしまう」
 
「しかし浅井はまだ態勢ができていないかも知れないが、朝倉は後ろから襲ってくるぞ」
 
「殿(信長)のご指示により、私と十兵衛殿(明智光秀)が金ヶ崎城に留まって、朝倉を食い止めることになっております」
 
むろんこれは極めて危険な役割である。援軍が有り得ない状態で他の部隊を守るために、徹底抗戦する必要がある。光秀はびっくりしたが、顔色ひとつ変えずに
 
「私が食い止めますから、各々方は静かに撤退してください」
と言った。
 
「しかし浅井が仕掛けて来たら乱戦になるかも知れません。下手すると殿の身に不測の事態が起きる可能性も」
 
「殿は私の手の者が安全な道筋で別途お連れ致します。池田様(池田勝正)、殿に代わって全体の指揮をお願いできますでしょうか?」
 
「うむ。引き受けた」
 

そういう訳で、信長には秀吉の腹心の山内一豊、信長の小姓で桶狭間で信長の傍に居た森三左衛門可成の息子・森勝蔵長可(森蘭丸の兄)らが付き添って別ルートで京都に向かうことにする。信長と秀吉が絶対に信頼できる数人の腹心を選んで別室に入る。
 
「なに〜〜〜!? 女の服を着ろというのか?」
と信長が怒った。
 
「万一のためでございます。勝蔵殿もお付き合いを」
 
ということで、秀吉は信長と森長可に女の服を着せ、髪型も女のような髪に結ってしまった。長可は13歳の美少年なので女の服を着せると普通に美少女になってしまったが、信長は微妙である。そしてひじょうに不機嫌な顔をしている。しかし秀吉は信長自慢のヒゲまで剃ろうとしたので
 
「こら、サル何をするか!?」
と雷が落ちる。
 
「殿、そのようなしかめっ面では男とバレてしまいます。可愛く笑顔で」
「やってられるか!」
「殿の肩には何百万もの侍と民の命が掛かっています」
 
そう言われると信長も渋々笑顔を作る。それでヒゲも剃らせてくれた。更に眉も剃り落とし、唇には紅を塗った。笑顔になれと言われたので笑顔は作っているが、内心はかなり怒っている雰囲気である。
 
そして秀吉は信長の陣羽織を山内一豊に着せた。
 
「朽木の山道(現在の国道367号に近いルート)を越えます。朽木には話を付けてあるのですが、万が一裏切った場合に供えてで御座います。その時は伊右衛門(一豊)、お前が身代わりになって、殿と勝蔵殿を逃がせ。敵も女が2人逃げていくのまでは咎めまい」
 

それから一行は秀吉の陣に入った。予めこちらに合流させていた朽木元綱の家臣が10名ほど待機している。信長の振りをしている山内一豊が
 
「手間を掛けるな。朽木殿には必ずや恩に報いる故」
などと彼らに言う。
 
「おなごもおられるのか?」
と朽木の家臣が言う。
 
「私の身の回りの世話をする女だ。居ないと色々不便なので同行させるが、ふたりとも猟師の娘なので山歩きには慣れている。足手まといにはさせん」
と信長役の一豊が言う。
 
「では遅れた場合は置いていきます。よろしいかな?」
「いや遅れそうになった場合は私が斬り捨てる。お前達、しっかり付いて来いよ」
 
と一豊が言うと女装の森長可が頷き
「大丈夫です。山歩きは慣れています」
と言う。声変わり前なので、充分少女の声に聞こえる。
 
すると同じく女装の信長も
「頑張ります。よろしくお願いします」
と言った。
 
信長が声を出したので一豊はやや焦ったが、信長の声は元々ハイトーンなので、女の声に聞こえなくもない。それで朽木側の侍は特に怪しむことも無かったようであった。
 
そうして朽木の家臣と一緒に信長の一行は旅立って行った。
 

金ヶ崎城に陣取った秀吉と光秀の軍勢は充分に北の朝倉軍を牽制した。そして池田勝正が率いる信長軍と、行動を共にする徳川軍は秩序良く撤退を進めた。これに対して浅井軍は、そもそも長政本人が陣に入らず、本来の勢力の2〜3割程度の軍勢で、わざわざ信長軍との激突は避けるようにしていた。そのため時々浅井側の暴走者との小競り合いが起きて多少の戦死者は出たものの、ほぼ無傷に近い形で琵琶湖南岸まで退くことが出来た。
 
一方の山越えルートの信長たちも4月30日までに京都に帰着することができた。
 
世に言う「金ヶ崎の退き口」はこのようにして最小限の被害で無事撤退することができたのであった。
 

裏切った浅井を許すまじとした信長は6月、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った。しかしこの戦いでは浅井長政・朝倉義景を倒すまでは至らず、相手に余力を残させることとなる。すると浅井・朝倉連合軍は9月、比叡山と一緒に信長を攻め琵琶湖西岸の志賀などで激しい戦いが行われ、森可成も戦死してしまう。
 
他に弟の織田信治も失い、堪忍袋の緒が切れた信長は翌元亀2年(1571年)9月、比叡山の焼き討ちを行った。比叡山に籠もっていた者は女子供でも構わず全員殺戮した。この時、伝教大師がここに道場を開いて以来ずっと灯し続けられていた法灯まで消えてしまうことになる。(後に分灯していた他の寺院から移されて復活する)
 
この焼き討ちの際、各武将は逃げてくる者は女子供でも全員殺せと信長から命じられていたのだが、諸将の中で秀吉だけは、逃げてきた者の中で、女子供を見逃してやっている。むろん男は非力な坊さんでも斬るし、何人か女装で逃れようとしていた男も斬った。
 
巧みに女装している男を厳密に見分けて秀吉が捕まえるので、傍に控えている石田三成が大いに驚いていたが、山内一豊は
 
「殿(秀吉)は眼力があるから、女に化けた男をしっかり見分けるのよ」
などと言っていた。三成は《ネネの秘密》を知らないので、随分感心していた。
 
なお、この女子供を逃がすというのは、大いなる軍規違反であったが、そのことで信長は特に秀吉を咎めたりはしなかった。
 
しかしこの時期の信長は多方面で苦戦を強いられている。長島一向一揆が起きて弟の織田信興を失い、金ヶ崎の功労者・松永久秀が裏切り、一方隣国では武田軍と徳川・織田連合軍が三方ヶ原で激突し、武田軍に大敗を喫する。家康も危ない所を幾人もの家臣が身代わりになったお陰で何とか逃げのびることができた有様であった。しかしここで武田信玄が病死したことから、武田軍は甲斐に引き上げる。家康と信長は危うい所を救われたのであった。
 

天正元年(1573)8月、信長は反攻に転じる。三好三人衆の一人・岩成友通を倒し、まずは朝倉を攻めて8月20日義景を自刃に追いやる。更に浅井を攻めて8月28日浅井長政も自刃に追い込む。この時、ミチが手引きしてお市の方とその3人の娘(茶々・初・江与)は信長の元に無事帰還した。11月には三好義継と戦い、11月19日これも自刃に追い込んだ。
 
次々と信長包囲網が各個撃破されていく中、震え上がっていた人物が居た。一時は信長に従っていたものの、裏切って三好側に付いていた松永久秀である。
 
12月の中旬。ネネはツテを辿ってその松永久秀の所に潜入した。突然の来訪に驚く久秀であったが「今ならまだ間に合う。信長様は必ず許してくれる」と熱く説くネネに彼は気持ちが揺らいだ。
 
同年12月26日、久秀は信長に降伏し、再び信長臣下となった。
 
一方、秀吉は浅井旧領を与えられ、初めて一国一城の主となる。この時、秀吉は丹羽長秀と柴田勝家から苗字を1文字ずつもらい《羽柴》の苗字を名乗ることになった。
 
(つまり木下藤吉郎秀吉から羽柴藤吉郎秀吉となる。ここで羽柴は苗字、藤吉郎が通称、秀吉は諱である。人を呼ぶ場合、官名で呼ぶか、苗字+通称で呼ぶのが普通であり、他人の諱を勝手に呼ぶのは極めて無礼な行為なので「織田信長様」などと呼び掛けるのは有り得ない)
 

翌年、信長は長島の一向一揆と戦う。光秀・秀吉らに後方の守りを任せて信長配下の8万の大軍を動員。長島の地を陸から完全包囲するとともに、九鬼水軍が海から長島を包囲して兵糧攻めにする。一揆勢は5つの城に立てこもった。
 
最初に大鳥居城が陥落。続けて篠橋城の者たちは長島城に移る。籠城戦になるが食糧が尽きて餓死者が続出するので、長島城は降伏し、中に籠もっていた者は退出しようとする。しかしそこに信長は一斉射撃を加え、女子供でも構わず、皆殺しにしてしまった。
 
そして残る2つの城は焼き討ちにして2万人の信徒が焼死したという。
 
信長が一向衆を過酷に処置したのは、彼らのひとりひとりが極めて危険な存在であることを認識していたからである。彼らは死んだら極楽浄土に行けると思っているので死ぬことを恐れていない。死ぬのを恐れない兵士ほど怖いものは無い。女子供といえども油断ができず、一見無力と思われた降伏者の反撃で、織田側にも織田秀成をはじめ多くの死者を出している。
 
そしていよいよ織田は武田と再戦をすることになる。
 

「サル(秀吉)、キンカン頭(光秀)、権六(柴田勝家)、いよいよ武田とやるぞ。今度は負けんぞ」
 
と信長は楽しそうに言った。
 
「ただ武田の騎馬隊は手強いです。信玄殿が亡くなられて息子の代になり弱体化したとは言われますが、侮れません」
 
「それについてはサルとキンカンが対策を考えたらしい」
と信長。
 
「はい、殿様。鉄砲を撃って撃って撃ちまくりましょう」
と秀吉は言う。
 
「ふむ。楽しそうだな」と信長。
 
「鉄砲は確かに有効な手段だ。しかし鉄砲を撃った後が問題だ。一撃で向こうを全滅させられたらいいが、鉄砲は一度撃つと、その後筒を掃除して、再び弾を込め、火縄に火を点け、それが燃えて発射されるまでに物凄い時間が掛かる。その間に敵に攻め込まれたら無力だ」
と勝家は当時考えられていた鉄砲の欠点を言う。
 
「その問題については、私は十兵衛殿と20年前に話し合ったのですよ」
と秀吉は言った。
 
「20年前??」
「若い頃、藤吉郎殿は出雲で刀鍛冶の弟子をしておりまして、そこに私が当時本当に珍しかった鉄砲を持って寄ったのです。その時、藤吉郎殿や、他の鍛冶のお弟子さんたちと随分議論しまして」
と光秀は言う。
 
「まあ、取り敢えずみんな饅頭を食おう」
と言って、秀吉は一同に饅頭を配る。
 
「うちのが作ったものです」
「おお。ネネ殿は昔から菓子作りが上手であったな」
と信長が言う。
 
信長は笑顔でネネ手作りの饅頭を食べている。柴田勝家も
「おお、ちょうど腹が減ってきたと思っていた」
と言って、取って食べるが、光秀はじっと秀吉の顔を見詰めている。
 
「どうなされた、十兵衛殿。まるでおなごでも見詰めるように私を見て?」
と秀吉が訊く。
 
「あ、いや、そなた、おなごでは無いよな?」
と光秀。
 
「私が女に見えるか? 十兵衛殿、書物の読み過ぎで目が悪くなられたか?」
と秀吉。
 
「済まん。気のせいだ」と光秀。
「お主、酔っているのではあるまいな?」と勝家。
 
「私が女だったら、十兵衛殿の側室になってやってもよいぞ」
「いや、私は側室は置かないことにしているから」
 
当時の明智光秀の妻は細川ガラシャなどの母である煕子(ひろこ)である。光秀と煕子の仲はひじょうに睦まじく、彼女の存命中、光秀は側室を置かなかった。
 
「藤吉郎が女で、十兵衛と結婚したら、頭が禿げたサルが生まれるかも知れん」
などと勝家が軽口を叩く。
 
「それも面白そうだがな」
と言う信長は既に3個目の饅頭を食べている所である。
 
「まあ、そういう訳で、鉄砲の弾を詰め替えて次の弾を撃つまでの時間が、ちょうどこの饅頭を1個食べるくらいの時間なのです」
と秀吉は言った。
 
「ほほお。それで饅頭だったのか」
と信長。
 
「それで結局どうするのだ?」
と勝家。
 
「鉄砲撃ちを5人ずつ組にします。縦に並べて1人ずつ撃たせる。1人が撃ったら後ろに下がり、筒の掃除と弾詰めをする。その間に次の者が撃つ。撃ったら列の後ろに回って、掃除をする」
 
「なるほど!」
「鉄砲をたくさん用意しましょう。こうすれば、どんどん撃てるので相手はたとえ馬に乗っていても、こちらまで来る途中で誰かの弾に撃たれます」
 
「面白い。お前たちに任せるぞ。鉄砲も火薬も買えるだけ買え」
と信長は機嫌が良さそうな顔で言った。
 

そうして武田軍と織田徳川連合軍は天正3年(1575年)5月、現在は愛知県新城市に入っている長篠城の近辺で、相まみえた。「長篠の戦い」である。
 
初め長篠城に入っている奥平貞昌が頑張って武田軍の猛攻に耐えるが多勢に無勢である。奥平の家臣の鳥居強右衛門が城を密かに抜け出し、助けを求めに織田軍のいるはずの所まで走る。そして数日中に織田徳川本隊が到着するというのを伝えられ、城にその報せを持って帰ろうとした。
 
ところが鳥居は城の近くで武田軍に捕まってしまう。武田側は鳥居に「援軍は来ない」と言え、そうすれば命は助けると言う。鳥居はそれに従う振りをして、土壇場で大きな声で「援軍はすぐに来るぞ」と叫び、武田は鳥居を磔にした。しかしこれで長篠城の守備兵は志気が高まり、その後、実際に織田徳川連合軍が来るまでの4日間、耐えきるのである。
 
そして両軍は長篠城の近く、設楽原で5月21日激突する。
 
ここで武田の騎馬隊に対して、織田は数人ずつまとめた鉄砲隊による、世に言う「三段撃ち」の攻撃を見せ、次々と飛んでくる銃弾に馬も武将も倒れて、騎馬隊は壊滅してしまう。
 
武田勝頼は甲斐に引き上げ、その後家臣の離反が相次ぎ、弱体化していくことになる。
 

天正5年、信長の小姓に新たに1人の少年が加わった。森勝蔵長可の弟、森蘭丸成利である。
 
元々この子たちの父・森可成も結構な美男子であった。そして兄の勝蔵も美少年であったが、森蘭丸の美少年度は群を抜いていた。
 
「そなた本当に男か?」
とマジで信長は尋ねた。
 
「はい、男でございます」
と森蘭丸は声変わり前のボーイソプラノで答える。
 
「サル、本当に付いているかどうか確かめろ」
などと信長が言うので、やれやれと思いながらも秀吉は森蘭丸の傍に寄り、「すまん」と声を掛け、股ぐらを触る。蘭丸はびっくりしている。
 
「殿、確かに付いております」
「棒も玉もあるか?」
「はい、確かに棒も玉もあります」
 
「そうか。でもまあ、そなたほど美形であれば、男でも女でも構わんな」
と信長は楽しそうに言う。兄の長可は頭を抱え込みたい気分であった。
 

数日後、森蘭丸が信長に呼ばれて怪訝な顔をして安土城の廊下を歩いていたら、中年の女性に声を掛けられる。
 
「森様、ちょっとこちらにいらしてください」
「そなたは?」
 
「羽柴藤吉郎秀吉の妻、ネネと申します」
「おお! 藤吉郎殿の。父も兄もたいへんお世話になっていたようで」
 
「ちょっと北の方様(信長の妻・帰蝶)から頼まれたのです。ちょっとこちらへ」
「はい?」
 
森蘭丸がその部屋に入っていくと、数人の腰元が待機している。そして腰元達は
「森様、失礼致します」
と声を掛けると、数人がかりで森蘭丸の身体を捕まえた。
 
「何をする?」
「この方が殿の覚えが良いので」
「ちょっと待て〜〜! お前ら何をするのだ!?」
 
森蘭丸は多少抵抗したが、多人数で押さえられると相手が女であってもかなわない。そして15分後。
 
「何なんだ?この服は?」
と森蘭丸は言っている。
 
まるでどこかのお姫様のような美しい小袖を着て、髪も武家の娘風に結われている。更にお白粉を塗られ、唇に紅まで塗られている。
 
「そういう格好の方が殿様の好みなのですよ。さあ、殿様の所へいらしてください」
「この格好でか?」
と森蘭丸は情け無さそうな声で言う。
 
「はい。美しいですよ」
 

それで腰元が2人付き添い、信長の居室まで行った。
 
「失礼します」
と言って声を掛け、廊下に正座して襖を開け、中に入って襖を閉める。腰元2名は廊下で待機する。
 
「殿、たいへん遅くなりました」
と声を掛けると、信長は
 
「誰?お前」
と言う。
 
「あのぉ、森蘭丸成利で御座います」
「お前、やはり女だったの?」
 
「いえ、男ですけど、さきほど腰元たちに捕まってこのような格好にされてしまいまして」
 
「あははは。それは帰蝶の悪戯だな。まあよい、お前、本当に可愛いではないか。こちらに寄れ」
 
「はい、あのぉ、ご用件は何で御座いましょうか?」
「よいではないか、よいではないか」
 
と言って信長は美少女姿の森蘭丸を傍に寄せ、愛で始めた。外に居る腰元たちは信長と蘭丸が「結ばれる」かどうかを確認して信長の正室・濃姫(帰蝶)に報告しなければならないので、襖に耳を近づけて中の様子を伺っていた。
 

天正10年(1582年)3月11日、天目山の戦いで武田勝頼が死して信玄が築いた強固な王国は瓦解した(心頭滅却すれば火もまた涼し)。
 
5月、信長はこの武田討伐の労をねぎらうため、徳川家康と穴山信君(信玄の甥で武田家の事実上の後継者)を安土城に招き、15日から17日までもてなした。明智光秀がその饗応役に任じられたが、この時信長は妙に不機嫌で、光秀を困惑させた。些細なことで光秀を怒鳴りつけ、饗応役を解任した。
 
しかしそこに中国で毛利勢と戦っている秀吉から援軍の願いが来ると、信長は数時間前に光秀を怒鳴りつけたことを忘れたかのように彼を呼び寄せ秀吉を助けるために中国に向かうよう指示した。この程度は信長としては、いつものことである。(秀吉からの援軍の要請があったので、それに向かわせるために饗応役を外したという説もある)
 
光秀は25日、いったん丹波亀山城に入り、1万3000人の大軍を編成する。信長自身も追って中国へ向かおうとし、少数の伴を連れて5月29日、京都・本能寺に入った。一方の徳川家康と穴山信君は奈良見物をした後、堺に行っていた。商業都市・堺の見物という名目だが、恐らくは軍事物資の商談でもしていたのだろうか。
 
そして6月2日早朝。信長は馬のいななきや破裂音で目を覚ます。最初は喧嘩か何かかとも思ったものの、どうも襲撃されているようだというのを認識する。
 
「これは謀反か?如何なる者の企てぞ?」
と信長は叫ぶ。この時、信長が真っ先に疑ったのは、京都に来ていた長男の信忠であったという。
 
しかし森蘭丸が走り込んで来て告げる。
「明智が者と見え申し候」
 
すると信長は
「是非に及ばず」
と言って、自らも最初は弓を取って戦い、矢が尽きると槍を取って戦った。
 
傍に仕えている女たちに「お前たちは逃げろ」と言い、自らは屋敷の奥に籠もり切腹して果てた。享年四十九。
 
桶狭間の決戦の前『人間(じんかん)五十年、下天の内を比ぶれば夢幻の如くなり』
と謡い舞った信長はその下天の1日にあたる50年を生きることなく、この世を去ってしまった。
 
森蘭丸やその2人の弟ほか、本能寺の信長の男性従者はほぼ全て討ち死にし、生き延びたのは黒人の従者・ヤスケのみである。
 
そして信長の遺体は発見されなかった。
 

この頃、秀吉は中国で毛利軍相手に苦戦していた。備中高松城を水攻めにしていたのだが相手の志気は高く、なかなか落ちない。近くに毛利側の援軍も来ていたが、そちらも戦況が膠着状態なので、手が出せない状態であった。
 
信長が本能寺に散った翌日の夜。秀吉の元に密使が訪れた。
 
光秀からの内密の報せと聞き、秀吉は光秀の援軍がいつ頃、備中に到着するかを報せる手紙かと思った。ところが中身を見て、秀吉は驚愕する。
 
「藤吉郎殿。私は上様(信長)を討った。ふたりで天下を取ろう。毛利にも話を通すから、中国はいったん放置してこちらに戻り、一緒にまず畿内を固めないか?」
 
信長がもし死んでしまったら、ふたりで天下を取ろうなどというのは、光秀との閨での睦み言葉のように言ったことはあった。しかし自ら信長公を討つとは・・・
 
「なんて早まったことを・・・」
と秀吉は呟いた。
 
大義が無い。主君を殺した人には誰も従わない。
 
しかし「毛利にも話を通す」だと!?
 
秀吉は密使に訊いた。
「毛利にも密使を送っているか?」
「はい。一緒に出ましたから」
 
「そうか」
 
秀吉はいきなり刀を抜くと、密使を斬り捨てた。そして配下の者に通達した。
 
「この近くに毛利への密使が潜んでいるはずだ。絶対に捕らえよ。見逃したら大変なことになる」
 
1時間ほどの探索の結果、怪しい風体の男が捕らえられる。
 
密使が持っていた書状を取り上げる。石田三成・山内一豊・黒田孝高(官兵衛)だけを残し、他の部下は下がらせる。中を読む。
 
「今羽柴の軍勢がそちらを苦しめており、毛利家に滞在なさっている将軍殿もさぞかしご機嫌よろしくないことでしょう。私は京都で2日、織田親子を倒しました。将軍様もきっとお喜びになることと思います。毛利殿、ここで将軍を立て、一緒に天下を治めましょう。羽柴とは和議してください。羽柴も私の味方です」
 
秀吉は冷や汗を掻いた。こんなものが毛利に見られていたら自分も謀反人ということになってしまう。
 
「密使が立ったのは、私の所と毛利殿の所だけか?」
「はい、そうです」
と密使は答える。
 
「徳川や上杉には?」
「まずは毛利殿と協力し、それから徳川を討つと申されていました」
 
この会話にただならぬものを感じて、三成たちも顔が青ざめる。
 
「そうか。ご苦労であった。一休みして行け。その後で毛利の所まで送ってやる」
と言い、密使が礼をした所を秀吉は刀を抜き、一刀で斬り捨てた。
 
「何があったのですか?」
と石田三成が訊く。
 
「明智日向守が上様(信長)を討った」
 
「何ですと!?」
「誰の企みです? 徳川ですか?」
と山内一豊が訊く。
 
それは秀吉も一番に疑ったことであった。沈着冷静で無謀なことをしない光秀がよりによって信長を討つというのは、おそらくは背後にいるのは徳川だと考えた。しかしその徳川を討つつもりだと密使は言っていた。それなら背後にいるのは誰だ?今更上杉も出てこまい。上杉謙信の後継者・景勝は器量が随分落ちる。むしろ家老の直江兼続の方がよほどの大物だ。上杉はここで信長を暗殺してまでという根性は無いだろう。他に考えられるのは、まさか勝家か?勝家と光秀で天下を取る??それはさすがに無理だぞ。
 
すぐにも京都に戻りたいが、とにかくもこの高松城を何とかしなければならない。
 

明けて6月4日。毛利側との交渉役になっている安国寺恵瓊に秀吉は講和の条件を緩めると伝えた。高松城城主の清水宗治自刃と、備中・美作・伯耆の三国の譲渡で手を打つとした。毛利側はこの条件を呑み、清水宗治は水攻めで出来ている湖の小舟の上で切腹した。毛利側との講和の文書が交わされた。
 
そして秀吉は号令を掛けて自軍を急ぎ撤退させ、京都へ向けた。
 
その直後、毛利側は信長が死んだことを知った。
 
毛利方の吉川元春が「騙された!」と言って激怒した。そしてただちに秀吉の軍を追尾して倒そうと言う。しかし小早川隆景は「和議は和議だ」と主張し、駆け引きは戦いの常。今は秀吉に好きにさせよう。やがて時は来ると言って、追撃をさせなかった。おかげで、秀吉は後ろを気にせずにわずか2日で姫路城(秀吉の本拠地)まで帰着することができた。
 
中国大返しであった。
 

その間、摂津の中川清秀からの手紙を受け取るが、秀吉は中川に「信長公は難を逃れて、現在琵琶湖沿岸の膳所におられる」と返事をした。信長の遺体が見つからなかったことから、当時実際に生存説も流れていたのである。秀吉はそれを利用した情報戦に出た。
 
これで中川が光秀討伐軍に参加してくれることになった。万一中川が明智側に付いていたら秀吉は光秀の本隊と戦う前に、中川と戦う必要があったので、この動きは大きかった。
 
秀吉は姫路で再度態勢を整える。もし毛利が和議を破棄して攻めて来た時のために姫路城に浅野長政を残し、11日尼崎で丹羽長秀・織田信孝・池田恒興ら(一部は使者)と合流、12日に富田で軍議を開く。
 
その頃、やっと光秀は秀吉がもう近くまで戻って来ていることを知り驚く。13日、明智側は戦いの要所である天王山を押さえようとしたが、その時には既に秀吉方の中川清秀がそこを占拠していた。
 
明智側は1万3000に対して秀吉側は4万である。しかも明智側の軍勢の中には明智が信長を倒したことに疑義を抱く者も大勢いる。
 
戦いはあっという間に決着し、明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。
 

光秀は何とか各方面に連絡を取り、態勢を整え直そうと言うが、僅かに逃げのびた家臣たちから、今すぐは無理だと言われる。そもそも勝龍寺城が小さいこともあり、ここに籠もることが出来た兵は僅か700である。ここは闇に紛れて脱出しましょうと言われ光秀も同意した。それで夜になるのを待つことにする。
 
深夜。仮眠していた光秀は襖が開く音で目を覚ます。
 
「手引き致します。一緒に出ましょう」
と女は言った。
 
「そなたは、お市の方様の?」
 
光秀の寝所に忍んで来たのは、以前お市の方に付いていた腰元・ミチであった。
 
「その任は既に解かれております。私は現在、ネネ様のために動いております」
とミチは言った。
 
「何?」
 
光秀はてっきりミチが自分を暗殺に来たのかと思い、緊張した。
 
「今、日向守様は、死を覚悟なさっておりますでしょう?でしたらこの後、何が起きても怖くないですよね?」
そうミチは言った。
 
光秀はミチが勧めるままに農家の女が着るような服を身につけ、女髪に結ったかつらもかぶった。
 
「では参りましょう」
 
この後、光秀が居なくなったので勝龍寺城に居た家臣達は騒ぐが、おそらく殿は脱出されたのであろうと解釈し、翌朝城を開いて秀吉方に投降した。
 

天正10年(1582年)6月27日。清洲城に、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4人が集まった。
 
信長亡き後の今後の体制を討議するためである。まずは信長・信忠親子の死亡で当主不在になった織田家の後継を定める必要がある。(本能寺の変の時点で信長は既に織田家当主と右大臣を退任しており、信忠が当主であった)
 
その織田家後継に、柴田勝家は信忠の弟(信長の三男)・織田信孝(25歳)を推したが、秀吉は亡くなった殿様の嫡男が健在なのに、それは筋が通らないと言って、信忠の遺児・三法師(織田秀信,3歳)を推した。
 
確かに物事の順序ということで言えば、君主の長男こそが後継になるべきであろうが、わずか3歳の三法師を当主にするということは、つまりそれは形だけのものとということで、実権はそれを推した秀吉が取ることになるだろう。そもそも信長を討った明智光秀を倒したのが秀吉である。三法師の後継というのは、この後、信長の実質的な後継者が秀吉になることを意味した。
 
議論は紛糾するが、やはり道理が通っていることと、丹羽長秀が秀吉支持に回ったこともあり、結局後継は三法師ということで決定した。
 

「ネネ殿の言う通り、何とか頑張って三法師殿を後継に決定した」
 
と仮の居所に戻った《秀吉》は《ネネ》に言った。この時期の秀吉の居城は姫路城ではあるが、実際問題として秀吉は落ち着いて城に居られる情勢ではなく、京都・尾張・大坂などあちこちを動き回っている。
 
「良かったわね。これで秀吉様の天下が来る」
「うん」
「それを望んでいたのでしょう?」
 
「私とネネ殿で協力すれば、必ず天下は取れる。織田様では関東・四国・九州まで統一するのは無理ではないかというのは、随分昔話したね」
と《秀吉》は言う。
 
「そんなこと話したかしら?」
「官兵衛(黒田孝高/如水)にも一度それ聞かれたな」
 
「伊右衛門様(山内一豊)から聞いたわ。高松城で信長様が倒れたという報せを聞いた時、官兵衛様ったら『これで秀吉様の天下ですね』とか言って、佐吉(石田三成)様にたしなめられたって」
と《ネネ》。
 
「官兵衛殿は頭は良いが、やや口が軽い」
と《秀吉》。
 
「光秀様は頭は良かったけど、やや軽はずみでしたわね。もう亡くなっちゃったからどうしようもないけど」
と《ネネ》。
 
山崎の戦いの後、光秀の首を取ったという話が3件持ち込まれ、3個の「光秀の首」
が秀吉のもとに届けられたので、取り敢えずその中でいちばん顔が崩れていて人相のハッキリしないものを光秀の首と認定して、本能寺の前に晒した。なお斎藤利三は四条河原で処刑して、光秀と一緒に本能寺前に晒している。
 
《秀吉》はそのことや死んでいった多くの家臣・親族のことに心が痛む。僅かな心の希望は娘の玉(ガラシャ)が夫(細川忠興)に幽閉されることにはなったものの無事であることだった。
 
「私は生きていて良いのだろうか・・・・」
 
「時代がそれを求めているのだよ。日本の国に今、君が必要なのだよ。藤吉郎君。徳川が当然私たちの成果を横取りしようとするだろうが、そう簡単にあいつに天下は渡さん。むしろ頑張って手駒として働いてもらう」
と《ネネ》は厳しい表情で言う。
 
「徳川は怖い。私はあいつに勝てん」と《秀吉》。
「私に任せてもらえばいい」と《ネネ》。
 

夕食の時間となり、付き従っている数人の伴の者と一緒に食事を取る。その日は山内一豊・黒田孝高・石田三成・加藤清正といった重臣たちも来ていたので、ネネは彼らに酌をして廻った。山内一豊が
 
「ヒロさん、また若くなった?」
などと言ってから、
「あ、まちがった。ネネさんだった」
などと言う。全くこいつは・・・。
 
「ヒロって誰?」
と清正が怪訝な顔で訊く。
 
「愛人さんじゃないのかしら?」
とネネ。
 
「お主も子供ができんからのう。側室を迎えるのもいいと思うぞ」
と官兵衛。
 
「いや、甥を養子にしているから問題無い」
と一豊は返す。一豊は生涯側室を娶らなかった。それに一豊本人よりも頭が切れる奥方のマツに一豊は頭が上がらない雰囲気もあった。マツと一豊の間には女の子が1人居たが、地震で亡くなっている。
 

夜、《秀吉》と《ネネ》は閨に入った。
 
「でも、私、小さい頃出雲で十兵衛様に会った時、十兵衛様の奥さんになれたらなあと思った。今こうしてちゃんと奥さんになれたのは幸せ」
とネネは言った。
 
「やはり。。。。ネネ、お主は女なのか?」
 
「ふふ。もう私たち、こういう関係になってから10年以上経つのに、まだ分からないのかしら?」
 
「判断が付かないのだよ。ぶらぶらするようなものは付いてないようだが」
 
「秀吉様も、これまでは側室を取れなかったけど、今後はぜひになんて話もあるだろうしね。たくさん側室を取るといいよ。私はもうこの年だから今更子供産めないしね」
 
「・・・若かったら産めたのか?」
「どうかしら?」
 
謎を掛けるようにネネは秀吉に答え、熱い口付けをした。秀吉も今はこの女(?)を抱くことが、自分の贖罪なのかも知れないという気がして、快楽の時間の中に自らを埋もれさせていった。
 
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【女装太閤記・激闘編】(1)